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| 健康のために煙草を吸おう |
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1998.02.11
嫌煙権が盛んな今日このごろではあるが、わたしはせっせと煙草を吸っている。もちろん、それを自慢するつもりはない。吸ってはいけない場所で吸ったことはないし、喫煙マナーとやらもちゃんと守っているつもりである。それも自慢するつもりはない。 「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」 とは、煙草のパッケージに書かれている文句である。余計なお世話だ。 平然と煙を肺に吸い込んでいるのだから、体に悪いのは承知の上である。わたしだって、そこらのたき火から出ている煙を肺に吸い込めば、ちゃんとむせる。目に入ればしみる。しかし、たき火の煙が体に悪いという話しは聞いたことがない。同じように紙と葉っぱを燃やしているにも関わらず、だ。一説には、煙草をまいている紙がいけないとか、紙を貼り付けている糊がいけないとかいわれている。まあ、その辺が煙草とたき火の違いだろう。まあたき火の煙だって、多量に長時間吸い続けたり、習慣的に吸い続けていれば、体には悪いだろうが。 が、煙草を吸うと癌になるといわれているが、これは本当だろうか? それも、吸っている本人よりも、副流煙とやらを吸い込むまわりの人間に対する害の方が大きいという。本当なのだろうか? もし本当だとしたら、たき火の煙だって副流煙じゃあないのか? いや、それ以前になぜ国は煙草の発売を禁止しないのだろう? 体によくないことを承知の上で、国は煙草の販売を認めているのだろうか? 他の発癌性物質については使用を禁止しているにもかかわらず、煙草の発売を禁止しないということは、煙草には発癌性物質が含まれていない、という明らかな証拠ではないだろうか? 煙草税(正式名称がこれでいいかどうかは知らない)という国の大きな財源の一つだから、というのは理由にならない。儲けのためには国民の命などどうでもいいというのなら、悪徳企業と変わりがない。いや、国が悪徳企業の手本になっている、という証明にはなるか。 国が発売を認めている限り、煙草が体に悪いとは、わたしは認めない。そのことに関する反論も認めない。文句があるなら、国は煙草の発売を禁止すればいいのだ。 青少年の非行を助長するから、という理由で伝言ダイアルやテレクラを規制しているのだから、国民の健康を損なうおそれがある、という理由で煙草を規制すればいいのだ。(同じ理由で、人を殴り殺す道具になる可能性があるので、金属バットの製造販売も規制するべきである、という話しはまた別の機会に) それがどうだい。規制するどころか、煙草は新製品が次々と出ているではないか。ニコチンが少ない? タールが1mg? そんなことは関係ない。本当に体に悪い物質が含まれているのならば、国がしっかり規制しなければならないのだ。わたしが吸っている両切りのラッキーストライクなんぞは、タール14mg、ニコチン0.9mgだが、闇ルートでも裏ルートでもなく、ちゃんと販売している。とはいえ、自動販売機なんぞでは売っていないし、そこらの煙草屋でもめったにみかけないところを見ると、ひょっとしてあの店は闇で売っているんだろうか? よそではなかなか手に入らないから、いつもまとめて買っていたが、これからは、念のために小声で人目を気にしながらひとつずつ買うことにしよう。 「喫煙マナーをまもりましょう」 これも、煙草のパッケージに書かれている文句である。不思議な話しだ。 確かに、マナーを守らない喫煙者は多いのかもしれない。だが世の中には、マナーを守らない喫煙者よりも、交通ルールを守らないドライバーの方が、絶対的に多いはずである。にもかかわらず、車のどこにも、「歩行者をひき殺すおそれがありますので、交通ルールを守りましょう」とは書いていないし、それを表示する義務があるともいわれていない。大体、世界の公害の大半は、車の排気ガスだと思うのだが、それについて「空気を汚すおそれがありますので、乗りすぎに注意しましょう」と書かれたものは見たことがない。いや、それっぽい表示やキャンペーン(ノーカーデーとか)は聞いたことがあるが、嫌煙運動のように強制的なものをわたしは知らない。 不埒な酔っ払いがわがもの顔で街中にゲロをまきちらしていても、酒のビンや缶には「吐き気をもよおすおそれがありますので、呑みすぎには注意しましょう」と記載されてはいない。駅のホームに「飲酒禁止」と書いた張り紙はないし、ましてや「飲酒所」もない。電車の中で缶ビールを飲んでいても、白い眼で見られることはあっても、別にマナー違反扱いされることはない。毎年、急性アルコール中毒で病院に運び込まれる奴や死ぬ奴が後を絶たないというのに、それを規制する法律も条例も存在しない。ニュースで報道されたところでせいぜい「今年も恒例の」という感じしか受けない。あ、それで死ぬのは自業自得だと、みんなが認めているのか。 道端や電車の中で吐いている奴がいても、テレビで「わたしは愛飲家。わたしは吐かない」というCMはやらない。街中に、「ちょい吐き禁止」と書かれたステッカーも張られていない。これ見よがしな灰皿を道端に置いて、「煙草の吸い殻を捨てるんじゃない!」という無言のプレッシャーをかけることはあっても、これ見よがしな吐き皿を道端に置いて「ゲロを吐くんじゃない!」とプレッシャーを与えている場所はどこにもない。いや個人レベルで、「立ち小便禁止」のような感じで「ここで吐くな!」というような張り紙を張っているのは見たことがあるが、キャンペーンになったという話しは聞いたことがない。 「ぽい捨て禁止」という意味では、わたしの煙草にはフィルターがついていないので、そこらに捨ててもすぐに土に返る。街の美観を損ねるだ? ゲロの方がよっぽど美観を損ねているだろうに。道を歩いている時に煙草の吸い殻を踏んづけても、それほど気にする人はいないが、ゲロは明らかに「きったねぇ」と誰もが思っているだろう。にもかかわらず、煙草をそこらに捨てれば注意する人間はいるが、道端で吐いている奴がいても「そこで吐いちゃいけませんよ」と注意する者はいない。 車のドアをあけて、灰皿の中身を捨てているのを注意するCMはあるが、車から飛び出して道端に吐いているのを注意するCMがないのはなぜだ? 車といえば、最近の車のCMも不思議だ。 安全性を考慮して、とかなんとか、車を壁にぶつけてみせるCMがあるが、あれは絶対におかしい。あれはどう考えても、運転している人間の安全しか考えていないのである。車に乗っている人間が、スピードを出しすぎたり運転ミスをしたりして事故に会い、そのあげくに死んでしまうのは自業自得というものなのである。煙草の副流煙を問題にするのならば、自動車事故の問題も、運転者ではなく、歩行者の安全を問題にするのが正当だろう。 だいたい、日本のどこに時速200km以上出せる一般道路があるというのだ? それだけのスピードを出せる場所がないのに、なぜ車のスピードメーターはそこまで表示できるようになっているんだ? 出してはいけないスピードが出せるようになっているというのは、論理的におかしくないか? 出してはいけないスピードは、出せないようにするのが安全性の考慮というものではないだろうか。そのぐらいの技術は、今の日本になら充分あるだろうに。そんな努力もしないで「ぶつかっても大丈夫」だなんて、ちゃんちゃらおかしい。 煙草のニコチンやタールを減らす努力はしても、車のスピードは上げる努力しかされていないのはどうしてだろう? 飲んでも吐かない酒が開発されることは、おそらく未来永劫ありえないのだろう。 嫌煙権は存在しても、嫌車権や嫌酒権は存在しないのだ。 なぜ煙草だけがこれほどいじめられるのか、大いに疑問である。 もしかすると、煙草は害があるどころか、本当は体にいいのではないだろうか? 本当は、煙草を吸うと頭も体もすっきりして、一本につき寿命が一年のびるとか。煙草を吸い続けると他人の思考が読めるようになるとか。しかし、体質的に煙草を吸えない(吸わない、ではない)医者や政府の高官が、「そんなのは不公平だ!」とか言い出して、煙草は害があることにしてしまったに違いない。あるいは、国民の知能が上がると自分たちが困るから、自分たちだけ煙草を吸っているとか。 と、ここまで読んでくればわかると思うが、わたしは煙草は吸うが、酒も飲まないし車の運転も(免許は持っているが)しない。いつかわたしが煙草をやめ、酒を浴びるように呑み、ちょっとそこまで買い物に行くにも車を使うようになったら、この意見はまったく逆になるはずである。 これが正しい自己主張のしかたである。(ほんとか?) |
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