|
|
|
[ 映画の感想文のようなモノ ] へ |
[ 小説のようなモノの書き方 ] へ |
[ 小説の感想文のようなモノ ] へ |
|
[ エッセイのようなモノ ] |
[ メモの達人への遥かなる道のり ] へ |
[ 小説のようなモノ ] へ |
| 確率のもんだい? |
|
|
|
|
1999.02.10
昔からくじ運が悪くて、宝くじはもとより商店街の福引きだって、下から二番目ぐらいしか当たったことがない。で、運良く当たったときに限って、当たった賞品がろくでもないものだったりする。こうなってくると、運が良いのか悪いのか、よくわからない。 もっとも、もともと当たると思っていないので、宝くじにしろ福引きにしろ、めったにやることがないのだから、それで、たまにとはいえ、下から二番目ぐらいでも当たるのだから、もしかしたら、それほどくじ運は悪くないのかもしれない。 当たったことがないので、詳しいことはよく知らないが、宝くじの場合、高額当選者は引き換え時に、アンケートに答えなければならないのだそうである。どこで買ったとか、年にどのぐらい買うとか、買った宝くじはどこにしまっていたかとか、そういったことに答えるのだそうである。 で、そのアンケートをもとにして、「こうすれば宝くじの高額当選も夢じゃない!」ってな広告やら記事やらが出ることになる。「ここが高額当選がたくさん出た売り場だ!」なんてぇあおり文句は、よく見かける。で、みんなそこに買いに行く。 ところが、これには大きな落とし穴がある。たとえば、全部で十枚の高額当選が出た売り場があるとしよう。一方で、一枚だけ高額当選が出た売り場があるとする。みんなどちらに買いに行くか、というと、これはやっぱり十枚の当たりが出ている方に行くわけだ。ところが、十枚の当たりが出た売り場は、全部で百万枚売れていたとする。一枚だけ当たりが出た売り場は、なんと百枚しか売れていなかったとする(って、そんな売り場があるとは思えないが) この場合、どちらの売り場に買いに行くか、と聞かれたら、やっぱり十万分の一の確率よりも、百分の一の確率の方がいいだろう。 重要なのは、その売り場から当たりが何枚出たかではなく、何枚売れたうちの何枚が当たりだったか、ということなのだ。つまり、当たる確率の問題。 だから、高額当選者のうち何割の人が、買った宝くじを神棚にまつっていたか、ということよりも、神棚にまつっていた人間のうちの、いったい何割が高額当選したかが、重要な問題になるのである。もしかしたら、高額当選者の中ではレアなケースで、買った宝くじを、ずっと頭の上に乗せつづけていた人がいるかもしれない。その人は、生まれてはじめて、しかもたった一枚買っただけの宝くじが、いきなり一等になったのかもしれない。頭に乗せつづけていたおかげで。 それを聞いたら、買った宝くじを頭に乗せる人が増えるだろうか。あまり増えるとは思えないが、やる奴が出て来ないとは限らない。 ところが、それをまねる人間が出てきたとたん、当たる確立はぐんと下がるのである。多くの人が同じことをすればするだけ、自分が当たる確立が低くなる。 高い確率を狙うのであれば、人と同じことをしていてはいけないのだ。 競馬や競輪でも同じこと。多くの人が賭けた馬や選手が勝った場合には、それだけ自分に戻ってくる配当金も少なくなる。あまり人が狙わないところを狙うのが、大きな見返りを手に入れるコツなのである。 すべて確率の問題。 そういえば、もうすぐバレンタイン・デーだなぁ(笑) わたしのところは、確率高いよ(笑) |
|
|
|
| Copyright(c) 1997-2007 Macride |
|