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| 桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿 |
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1999.04.07
あまり自信はないのだが、かつてアメリカの大統領だか何かをやったことのある人物の、子供のころの逸話で、桜の木がどうのこうの、というのがあったはずだ。 父親が大事にしていた桜の木を、切ってしまったその少年は、父親に問いただされて、正直に「自分が切った」と答えたという。で、正直に答えたことで、少年は父親に許された、というような内容だったと記憶している。 なにしろ、精神衛生上よくなさそうなので、偉人伝のようなものはいっさい読まないようにしている関係上、正確なところははっきりしないが、大筋は間違っていないはずである。 この逸話の伝えるところは「正直者は偉い」ということになっている。 本当にそうだろうか? いや、「正直が一番」ということに関して、異論をとなえるつもりはない。大嘘つきより正直者であった方がいいのは、言うまでもない。もちろん、時と場合にもよるだろうが、基本的に嘘はいけない。特に、自分の過ちを隠そうとしてつく嘘は、誉められたものではない。 この少年がいったいなぜ、桜の木を切ってしまったのか、あいにくわたしは知らないが、自分が切ったことを正直に告白したことは、もちろん誉められていい。だが、わたしが言いたいのは、そういうことではない。 同じ正直ネタのお話で「金の斧、銀の斧」というのがある。池だか沼だかに斧を落としたきこりが、そこから現れた女神さまだか妖精だかに、「おまえが落としたのは、この金の斧か? それとも、この銀の斧か?」と聞かれ、正直に「うんにゃ、鉄の斧っす」と答えたために、褒美として金と銀の斧ももらった、というようなお話だ。細部ははっきりしないが、たしかこんな感じ。 このお話からは、「正直者は誉められるべきである」という意図が、ストレートに伝わってくるような気がする。 しかし、桜の木を切った少年の逸話からは、どうも「正直者は偉い」という教訓が、素直には伝わってこないのだ。この逸話から得られる教訓は、本当に「正直が一番」でいいのだろうか? 細かい部分がわからないので、この少年がなぜ桜の木を切ったのか、あいにくわたしは知らないが、どんな理由で切ったにせよ、通常まず父親は、なぜそんなことをしたのかを確認するだろう。父親によっては、理由も聞かずに殴り飛ばす場合もあるかもしれないが、正しい手順としては、まず理由を聞く。殴るなり叱るなり、場合によっては誉めるなりするのは、そのあとである。 その後、できた父親ならば、正直に告白したことを誉めるかもしれない。だが、普通そういうことは、まずないだろう。 どんな理由であれ、自分が大切にしていたものを破壊されて、頭にこない者はいない。それを、「正直にいった」というだけで許したり誉めたりするというのは、並大抵の度量ではできないはずだ。だがこの父親はそれをした。これこそ、誉められるべきことだろう。 つまり、この逸話から得るべき教訓は、「正直者は偉い」ではなくて、「正直者を許す者は偉い」なのである。誉められるべきは、正直にいった少年ではなく、その息子を許した父親なのだ。 ただ、この父親にしたって、桜の木を切られたのではなく、何百万もする高価な皿を壊されたり、先祖代々伝わる大事な壷を割られたのだとしたら、正直にいった、という理由だけで許したかどうか。ましてや自分の腕や首を切り落とされた場合はどうだろうか。 この父親なら、理由によっては、許すような気がしてくるから不思議だ。 |
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