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[ エッセイのようなモノ ]
存在の耐えられないサルサ

1999.06.23

 結局、霊は見なかった。見たのに、気づかなかっただけかもしれないが。  
 まあ、幽霊にしろUFOにしろ超能力にしろ、あるとかないとか、いろいろな意見があるだろうが、「ない」という意見に対して、ひとつだけ納得できないことがある。  
 世の中には、これらのものを強く否定する人がいる。何がなんでも、そんなものは存在しないと言い張って、存在するというなら証拠を見せろ、とまでいう人がいる。それはそれでまあ、人それぞれだからかまわないのだが、存在するという証拠がないのだから存在しないのだ、という結論はいただけない。存在するという証拠がない場合、存在しないのではなくて、あくまでも「存在が証明されていない」だけなのだ。  
 証明されるまで存在しないのだったら、重力もバクテリアも、地球が丸いのだって、証明された瞬間までそうでなかったことになる。言い過ぎか。  
 どうしても絶対的に否定したい場合は、絶対的に存在しない証拠、というのを、提示しなければならないはずだ。  
 だから否定する人は、できれば「今の科学ではまだ証明されていない」というぐらいにとどめておいていただきたい。  
 じつをいうと、逆に強く存在を主張する人もいただけない。「俺は見たんだ。見たんだよぉ!」という場合でも、他人が納得するように、証明してみせなければならない。だからといって、「超能力は存在するんだ。ほらみろ」と、わたしに向かって、いきなり発揮されてもこまるのだが。  
 双方とりあえず、「わたしはこう思う」ぐらいにしておけば、世の中まるく収まるような気がするのだが、まるく収めちゃったら、世の中つまらなくなるのかもしれない。  
 ちなみに、UFOだけは確実に存在する。  
 これは、いつのまにか「UFO=宇宙人の乗り物」という形式になってしまったようだが、もともとUFOとは未確認飛行物体のことなので、それが宇宙人の乗り物にしろ、ただの気球にしろ、正体がわからないうちはすべてUFOなのだから、存在しないはずがない。逆に、それが宇宙人の乗り物だと確認された瞬間に、UFOではなくなるのだが。  
 超能力というやつも、よくよく考えてみるとおもしろい。  
 よく、「超能力は誰にでもあるんです」というようなはなしを聞くが、実はそうなると既に「超」能力ではなくなってしまうはずなのだ。誰にでもあって、誰にでも使える能力だとすると、「常能力」と呼ぶのが正しいような気がするのだが、いかがなもんだろう。  
 たとえば、耳をヒクヒク動かすことができる人がいる。動かせない人の方が圧倒的に多いのだろうが、動かせる人も確実に存在する。だが、この耳を動かす能力を、誰も超能力とは呼ばない。  
 これはもちろん、耳の周辺にもちゃんと筋肉があって、それを使えば誰にでもできる所業なのだから、超能力と呼べるような代物ではない。ではなぜほとんどの人ができないか、というと、耳の周辺の筋肉というのは、通常ほとんど使うことがないので、動かし方がわからなくなってしまっているからなのである。コツさえつかめれば、誰にでもできることなのだ。ちなみに、わたしはできないが。  
 それと同じように、超能力も、コツさえわかれば誰にでも使える、というものなのだとしたら、こりゃもうどう考えても「超」能力ではなくなってしまうのだが、ややこしくなるので、ここでは「超能力」で押し通す。  
 耳を動かすことを超能力と呼ばないもうひとつの理由に、「何の役にも立たないから」というのもある。それでいくと、スプーンを曲げるのだって、超能力とはいえないような気がするのだが。やっぱり「超」能力ではなくて、「失われた能力」とでも呼ぶか。  



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