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[ エッセイのようなモノ ]
遥かなる道の彼方に

1999.07.07(七夕じゃねぇか)

 今から数十年前のこと。ひとりの男がこの世を去った。彼は銀幕のスターとして青春をおくり、やがて映画産業が斜陽をむかえると、その活躍の場をテレビの世界に移した。テレビ業界に移ってもその人気は衰えず、男女を問わず彼のファンは多かった。やがて、彼を兄としてあるいは先輩として慕う者たちが、彼のもとに集まるにしたがい、彼はその世界で確固たる地位を築き上げていった。  
 だが、やがて彼の体を病魔が蝕みはじめた。若いころには「タフガイ」と呼ばれ、強い男の象徴だった彼だけに、病魔との戦いもまた、壮絶をきわめた。長く苦しい闘病生活。入退院を繰り返し、病をおしてテレビに出演したこともあった。だが、さすがの彼もやがて力つき、そして、二度とふたたび立ち上がることはなかった。  
 彼の名は石原裕次郎。享年52歳。  
 それから12年。彼の十三回忌が、おごそかにとは、あまりいえないような状況で執り行われた。場所は神奈川県横浜市鶴見区にある、曹洞宗大本山総持寺。そう、うちから歩いて15分ほどのところである(笑)  
 それにしてもすごかった。  
 その日わたしは、頭上を飛びまわるヘリコプターの爆音で目を覚ました。といっても、朝早かったわけではない。ほとんど昼に近かった。さすがに地元だけに、十三回忌の法要が行われることは知っていたので、その中継のためのヘリコプターだろう、ぐらいの予想はついた。  
 休日の習慣として、近くの喫茶店のモーニングセットで朝食(ったってすでに昼近くだったのだが)を取ることにしているので、わたしはのんきに家を出た。  
 喫茶店の前の道路に着いた瞬間、わたしは自分の目を疑った。道路の向こう側が、見渡す限り人であふれていたのだ。家を出る前に家族から、  
 「行列がすごいらしいよ」  
 とは聞いていたが、わたしも家族もここまですごいとは想像していなかった。なにしろ幅二、三メートルほどの歩道が延々と人で埋め尽くされていたのだ。  
 わたしが行きたい喫茶店の入り口は、その人ごみに面した場所にある。多少躊躇しながらも、意を決して道路を渡り、人ごみをかきわけて、わたしは店にたどり着いた。人ごみをかきわけている最中に、「強引ねぇ」という非難の声が聞こえたような気もしたが、わたしの空耳に違いない。歩道を不当に占拠している輩に、文句を言われる筋合いはないはずだからだ。  
 結局その日わたしは、合計4回ほど、その人ごみをかきわけなければならなかった。4回のうち、わたしに対して非難がましい声があがったように感じたのは、その1回だけである。他の3回がまたおもしろい。わたしが行列に近づいて行くと、近くにいた男性が  
 「おい。人が通るぞ。あけろ、あけろ」  
 と道を作って通してくれたのだ。3回が3回とも。もちろん、声をかけてくれたのはすべて別人だし、発した言葉も同じではない。おもしろかったのは、その言葉にしたがってすばやく場所をあけてくれたのが、ほとんど皆男性だった、ということである。それもほとんどが年配の方。  
 勝手な憶測だが、彼らにとって、裕次郎の法要ということは、彼の映画を見に行くのに等しい行為だったのではないだろうか。それはつまり、「見終わったときには、自分も裕次郎」というパターン。おそらくあの行列の中には、疑似裕次郎が山のようにいたに違いない。心配していたごみの散乱も、ほとんどなかった。  
 それにしても、あの行列のおかげで、臨時休業を余儀なくされた店も多かったと思うのだが、それに対して、関係者がお詫びに来たのかどうか、わたしは知らない。  



1999.07.14(追記)

 今日聞いたはなしでは、ちゃんと関係者がお詫びに来たらしい。「まだ開けてないからわからないけど、たぶんウィスキーかなんかじゃないの」といいながら、なじみの喫茶店のマスターが見せてくれた名刺には、石原プロモーションの社名の他にも、別の社名が入っていたから、おそらく子会社とか関連会社の人なのだろうが、郵送なんぞではなく、直接持ってくるところが、石原プロもそつがない。  
 もちろん、沿道の全ての家をまわったのだろうと思うが、中には酒屋なんかもあるんだが、そこにもウィスキーだったんだろうか。違うんだろうな、きっと。そつがないから。  



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