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1999.08.25
おかげさまで、この「エッセイのようなモノ」も40本目を迎えた。長いものや短いもの、前後編にわかれているものもあって、単純に40本といっていいかどうかはわからないような気もするが、とにかく40本もよく書いたものである。これもひとえに、わたしの努力の賜物である(笑) そうはいっても、二年近くかけてやっと40本なのだから、これはあまり多いとはいえないかもしれない。この本数を多いと見るか、少ないと見るかは、意見の分かれるところである。
ところが、多いか少ないかは別にして、最近困ったことが起きてきた。まあ、ネタがないのはもとからだからいいとして(いいわきゃないんだが)、少ない持ちネタの中で、使ったものと使っていないものとの区別がつかなくなって来たのである。もちろん、文章の大筋に使われているネタを忘れてしまうことは、今のところまだないのだが、ところどころに挟み込んだ小ネタが、どこで使ったのか、あるいは使っていないのかが、はっきりわからなくなって来てしまった。これはひとえに、わたしの怠惰の賜物である。
なにしろ、ネタ帳のようなものは作っていない。頭の中にあるものを、テキトーに吐き出しているだけだから、はっきりいってその場しのぎの文章がほとんどなわけだ。書いた後や、書いている最中に文章を見直して、削ったり追加したりを繰り返しているうちに、頭の中に浮かんだネタを、そのまま入れたり削ったりしている。もうぐちゃぐちゃなわけである。そんなモノを読まされる方もたまったものではないと思うのだが、別に読むことを強要しているわけでもなし、そのあたりの責任は、読んでいるあなた自身にあると自覚していただきたい。
まあ同じ小ネタでも、繰り返し使えるものもある。というよりも、繰り返し使うことによって笑いが取れるものというのもあるのである。たとえば、「エッセイのようなモノ」ではあまり使っていないのだが、わたしの持ちネタ(って、別にわたしはコメディアンでもなんでもないのだが)の中に「死んだ爺ちゃんの遺言で」というのがある。これは基本的にパターンを変えて何度も使うことで、効力を発揮してくるネタである(ホントか?)
しかしそうではなく、一度使ってしまったら、使えないネタというのも多く存在するわけだ。通常はこちらの方が断然多い。
ところが、新たな文章を書いているときに、頭に浮かんだネタが、既に使っているものなのか、そうでないものなのか、すぐにわからなかったりすると、これが困ったことになる。まず過去の「エッセイのようなモノ」を片っ端から眺めて、その手のネタを使いそうな部分をチェックする。で、その中になかったとしても、自信がないから結局全部読み返すことになる。こうなってくると、40本という本数は、決して少ないものではない。
これが、面白い内容のものばかりならばそれなりに楽しいのだが、いかんせんわたしが書いた文章である。そうそう面白いものがあるはずもなく、苦痛の連続になるわけだ。まれに面白いものがあったとしても、それはそれで困ることになる。読みふけってしまって、当初の目的を忘れてしまうのだ。まあ、幸か不幸かそういう困難に直面したことは、今のところないのだが、それを喜んでいいのかどうか、それはそれで問題のような気がしないでもない。
で、ネタのチェックのために読み返しているうちに、誤字脱字やわかりにくい文章なんぞを見つけてしまったりする場合もあるわけだ。簡単な誤りの場合には、直してこっそり更新したりもするのだが、通常は本来の目的からはずれてしまうので、そういうことは後回しになる。そういった事情で、誤字脱字やわかりにくい表現は、いつまでも残ることになるのである。
結局何がいいたかったんだ、今回は?
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