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[ エッセイのようなモノ ]
正しい映画の楽しみ方

2000.01.24

 先日テレビで映画「大脱走」をやっていた。テレビ東京なんてぇ関東ローカルな局でやっていたから、よその地方に住んでいる人や、外国の人には、あまりタイムリーな話題ではないかもしれないが。わたしにとっては、そんなことはどうでもいい。とにかく、「大脱走」なわけである。わたしにとっては、その後の人生を変えてしまったといっても言い過ぎではないような映画なのである。  
 はじめて観たのは、たしか小学校の五年か六年のときだったと記憶している。もちろん、テレビで放映されたものを観たのだが、このときの衝撃がすごかった。それまでにも映画を観たことがなかったわけではないだろうと思うのだが、映画というものをはじめて観たような感覚に襲われた。ほとんど、刷り込み状態のようなものである。  
 実際には、記憶に残っている映画で、もっとも古いものは、幼稚園のときに観た「バンビ」なわけだが、幸か不幸か「バンビ」が刷り込まれることはなかったようである。もっとも「バンビ」の場合には、いくつかのシーンを断片的に覚えていただけで、しかもそれが「バンビ」の1シーンだということは記憶に残っていなかった。後にビデオかなんかで観て、「おお、このシーンって、バンビだったんだ」とわかった次第。  
 いや、「大脱走」のはなしだな。  
 とにかく、小学生の男の子の目から見て、格好良い映画だったのである。もちろん、今観たって充分格好良い。  
 その後、何度かテレビで放映されていて、そういう場合は可能な限り観ている。観るたびに、わくわくしてしまう自分が、情けないやらかわいいやら(笑)  
 それほど好きな映画なのに、なぜかこれまでビデオに録画したものを持っていなかった。ビデオだってレーザーディスクだって出ているのだから、買うなり借りるなりすればいいのだが、実はそういうものではないのである。  
 実際には、レンタルビデオ屋で借りてきて観たこともある。だがしかし、それはわたしが知っている「大脱走」ではなかったのだ。いや、もちろん映画そのものは同じなんだが。スティーブ・マックイーンははにかんだような笑顔だし、チャールズ・ブロンソンは苦虫を噛み潰してるし、ジェームズ・コバーンは飄々としてるし、リチャード・アッテンボローはリチャード・アッテンボローだし(笑)  
 何がちがったかって、借りてきた映画の中では、みんな英語を喋ってるんだな、これが。何いってんだか、さっぱりわからない。テレビでやってたやつは、みんなちゃんと日本語喋ってて、セリフだってほとんど覚えてたのに。それがみんな、知らない人になっちゃったんだから、驚いたのなんのって。  
 そう、わたしにとって、「大脱走」はあくまでも吹き替えで鑑賞する作品だったのだ。  
 ところが、その吹き替え版のビデオを持ってなかったわけだから、今回の放映は大喜び。このところ仕事が忙しくて、家に帰りつくのが毎日次の日ってな状態だったから、タイマーで録画して、夜中にこっそり観たわけだ。Hなビデオでも観るように(笑)  
 で、オープニングのナレーションを聞いた瞬間に、背筋が凍りついてしまった。ナレーションの声が違うのである。セリフも少し違う。で、映画が進むにしたがって、これはもうわたしが知っている「大脱走」ではないということに気がついた。吹き替えが新しいのである。マックイーンは宮部昭夫じゃないし、コバーンは小林清志じゃないし。  
 いや、もちろん、新しい吹き替えが悪いってことじゃない。今回初めて観た人には、何の違和感もないだろうと思う。だが、わたしの頭の中には、もう完全に以前の声優たちが喋っていた声が刷り込まれているのである。  
 コバーンがトンネルに入る瞬間に吐き捨てるようにいう「おもしれぇ冗談だな」というセリフや、マックイーンの「どうも」なんてぇちょいとしたセリフが、新しい吹き替えでは当然のことながら違うのだ。  
 このショックは大きい。  
 なんせ、字幕版の、役者本人の声のビデオならたぶん手に入るのだろうが、吹き替え版となるとそうはいかない。わたしの記憶に残っている「大脱走」は、おそらくもう二度と手に入ることはないのだろう。そう考えると、このショックはあまりにも大きい。  
 映画は字幕で観るべきか、吹き替えで観るべきか、というわけのわからない論争がある。はっきりいって、これほど無意味な論争はない。映画は原語で観るべきなのである。原語版に字幕がついたもの、という意味ではない。役者本人が喋っているセリフを、直接聞くべきだ、という意味だ。字幕で観るべきだという人は、役者の声がどうのこうのというが、字幕を読んでいる限り、役者のセリフなんて、ちゃんと聞いちゃいないんだから。そういうレベルでは、吹き替えと大差ないんだってば。  
 字幕と吹き替えのどちらがいいか、と聞かれたら、わたしは、どっちでもいい、と答える。状況に応じて、といった方がいいかもしれないが。  
 たとえばテレビで放映する場合は、できれば吹き替えの方がありがたい。だいたいにおいて、テレビを観るときというのは、何かをしながらということが多いから、字幕だと「ながら」に支障をきたすのだ。こっちが飯食ってる最中に、重要なセリフを言われても、字幕を読んでいる暇はないのである。そういう意味で、テレビでやるときは吹き替えにしていただきたい。ただし、もちろん、下手な奴に吹き替えてもらいたくはない。本当にうまい人がやると、どう見ても外国の役者が日本語を喋っているようにしか見えないことがある。口の動きだって、よく見れば全然違うのに、だ。  
 吹き替えで有名なはなしがある。「ローマの休日」という、あの有名な映画をはじめて吹き替えでテレビ放映したときのはなしだ。王女が髪を切ってもらうシーンがある。そのときのデザイナーの声を、広川太一郎が吹き替えた。「あらまぁ、すてきなおぐしだこと」ってな調子のおねぇ言葉だった。誰も違和感を感じなかったらしい。わたしも、そういうもんだと思っていた。  
 だが、何年かして、新しい吹き替え版が出たとき、そのデザイナーの声を他の人がやってはじめて、彼がオカマではなかったことが明らかになった。実はおねぇ言葉は、広川太一郎がかってにやったのだという。もしあのデザイナーがオカマだったとしたら、王女をパーティーに誘ったりするはずはないのだから、実はよく考えてみればすぐにわかったはずなのだが。うまい吹き替えってのは、このぐらいすごいこともあるのである。  
 ときどき、そのとき人気のあるタレントだの歌手だのに吹き替えをさせることもあるが、あれも善し悪しだろう。いつも確実な線を狙っていたのでは面白くない。以外な線を狙ってとんでもないヒットを出す場合もあるだろう。たとえば、刑事コロンボの声をもともとあてていた小池朝雄の場合、誰がどうして彼を選んだのか知らないが、あまりにぴったりだったので、誰も違和感を覚えなかった。それどころか、本当のピーター・フォークの声をはじめて聞いたとき「変な声」と思ってしまったほどだ。はじめて吹き替えられる外国の役者の場合、まだ日本語の声が定着していないのだから、誰がやっても同じといえば同じ場合もある。ただ、どう考えても学芸会以下のセリフ回ししかできないような奴にやられては、吹き替えられる方もかわいそうだろう。上手い声優がやると、あまりにうまくて、吹き替えだということを忘れてしまうこともある。上手い吹き替えと特撮ってのは、似ているのかも知れない。  
 じゃあ、映画は吹き替えで観た方がいいのか、というと、これもまた難しい問題がある。  
 わたしの場合、レンタルビデオを借りるときに、意識して字幕版を借りる場合がある。海のものとも山のものともつかないような、正体不明の作品を借りるときだ。  
 こういう作品の場合、もしつまらなかったとしても、途中でやめて返してしまうのはくやしいから、とりあえず最後まで観る努力はする。だが、そんな作品のために、貴重な時間を使いたくない。そんなときは、当然早送りにするわけだが、ここで字幕が効力を発揮する。これが吹き替えだと、早送りしちゃうとなにいってんだか、さっぱりわからなくなってしまうが、字幕ならばとりあえずなんとなくわかる。ちょっと困ったら、戻せばいいだけだ。吹き替えだと、セリフをいってるのかどうかもわからない。そういう意味では、ビデオを借りるときには字幕に限るのである。  
 もちろん、先にもいった通り、英語なら英語でそのまま理解できるのが一番いい。まあ、一生無理だと思うけど。  



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