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[ エッセイのようなモノ ]
そこにそれがある限り

2000.03.03

 世の中には、いろいろと便利な機械が存在する。エレベーターというのも、かなり便利な機械だ。多少狭苦しいのが難点で、閉所恐怖症の方には辛い機械かもしれないが、ちょいとボタンを押しただけで、低いところから高いところへ、あるは高いところから低いところへ、連れて行ってくれる。  
 エレベーターの行き先階を指定するボタンのある操作パネルには、行き先階の指定ボタンの他にも、いくつかのボタンがついている。閉じかけた扉を開けるボタンだの、開いている扉をさっさと閉めるボタンだの。そのほかにときどき、受話器の絵の書かれたボタンがついていることがある。あれが何なのか、知らない人はおそらくいないと思うが、念のために書いておくと、あれはインターホンの呼び出しボタンなのである。家の玄関や門についているあれと同じなのだ。何のためにそんなものがついているのかも、ほとんどの方はご存知だと思う。あれを押すと、どこかにいる誰かが「どうしました?」と聞いてくるわけだ。つまり、緊急時用。  
 色々なメーカーが、色々なエレベーターを作っていると見えて、あのパネル上のボタンの配置もさまざまである。「開」や「閉」のボタンが上にあるものもあり、下にあるものもあり。もちろん、インターホンのボタンも、上にあったり下にあったりさまざまなのである。で、考え事をしながらエレベーターに乗ったときなどに、ついうっかりインターホンのボタンを押してしまったりする。そうすると、どこかにいる誰かが「どうしました?」と聞いてきて、こっちとしてびっくりするわけだ。  
 ところが考え事をしていないときでも、どういうわけか、つい押してしまいたくなるときがある。そこにボタンがあったら押したくなるのは人情というものだろう。違う?  
 もっとも、エレベーターのインターホンの場合、間違いだろうが意図的にだろうが、用もないのに押してしまったあとの対処は、それほど難しくない。とりあえず「すみません、間違えて押しちゃいました」といえば、それで済むのである。  
 あの手の、「なにかあったときに使ってください」系のものを、なんだか無性に使ってみたくなるということは、誰にでもあることだろう。少なくとも、わたしにはある。  
 特に、「緊急時には」かなんか書いてあると、もう指がむずむずしてしかたがない。  
 エレベーターのインターホンあたりはまだいい。押しても「間違えました」で済む。作った側にもそういう心理が働いているのだろう。ひょいと押せてしまうような作りに、つまり、カバーがついていたり、蓋がついていたりはしないのである。せいぜい、他のボタンとは色を変えたり、少し離れた位置にあったりするていどだ。もちろん、緊急停止用のボタンだったりした場合には別だろうが。  
 そこへいくと、火災報知器のボタンなんぞは、プラスチックのカバーがついているうえに、わざわざへこんだ穴の中にボタンがあったりして、何かのひょうしによろけてしまって、ついうっかり手をついたって、押せないようになっている。わたしとしては、こういうものこそ押したくなる。  
 電車の扉の近くにある「非常用ドアコック」と書かれた蓋も、一度でいいから開けて、中のコックを思い切り引っ張ってみたい。哀しいかな、扉を開けたことすらないのだが。  
 消化器なんぞも、そこらに無造作に置かれていたりするけれど、あれの安全ピンをひっこ抜いて、ハンドルを思い切り握ったら気持ちいいだろうなぁ、と思ったことが何度もある。  
 このような心理というのは、誰にでもあるのではないかと思うが、いかがなもんだろう。小学生が他人の家のインターホンのボタンを、用もないのに押して脱兎のごとく逃げ出す、通称ピンポンダッシュと呼ばれるいたずらも、この心理から来ていることは間違いない。で、またその衝動というのがおもしろいことに、まわりに対する迷惑の度合いが大きければ大きいほど、強くなるような気がする。はっきりいって「ごめんなさい」で済んでしまうエレベーターのボタンあたりは、押したくなる衝動もそれほど強くない。緊急停止用のボタンあたりになると、それが少し強くなり、非常ベルだの電車の非常用ドアコックあたりになると、それがかなり強くなる。じっと見ていると、つい手が伸びそうになってくる。  
 この手のボタンの横綱は、おそらく核ミサイルの発射ボタンだろう。そんなものが目の前にあったら、おそらく押したい気持ちをおさえるのに、必死の努力が必要になるに違いない。  
 恐いのは、自分の体がその衝動に負けてしまったときである。そのときに、目の前に核ミサイルの発射ボタンがないことを祈るだけだ。って、そんな可能性はまずないが。  



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