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[ エッセイのようなモノ ]
正しいメモの取り方

2000.03.09

 これまでにも何度か書いているが、この「エッセイのようなモノ」を書くときに、ネタがなくてしょっちゅう困っている。これはよくないと思い、ひとつメモでも取ってみようと思い立った。とりあえず、町中やら家の中やらで、気がついたこと、目についたことをメモしておけば、あとで必ず役に立つに違いない。と思ったのだが、これがどうも、思うようにいかない。もともとメモを取る癖がないから、ぱっとその場でメモを取る、ということができないのだ。もちろん、仕事をしている最中やら、打ち合わせのときにはメモを取っているが、アイデアメモのようなものは、考えてみたらいままで残したことがなかった。  
 じつはわたしは、「小説の書き方」系の本と同じぐらいたくさんの「メモの取り方」「手帳の使い方」の本を持っている。ところが実際には、その手の本を買い漁る人の常で、小説の方と同様に、まったく実践にはいたっていないのだ。  
 どの本に書いてあったのかは忘れたが、「日本の教育には、メモの取り方・ノートの取り方を教える部分がない」、という意見があった。たしかに、言われてみれば、学校で正しいメモの取り方やらノートや手帳の使い方を教わった記憶はない。だからかどうか、その手の本には、「メモはこう書け」とか「手帳はこう使え」ということが、著者の思想で書かれている。間違っても「こう書くのが正しい」とは書いていない。みなさんそれぞれ、「わたしはこうやってます」という、方法のひとつの公開でしかない。  
 で、読んでいて気がつくのだが、そういう人たちは、おそらくもともとやたらとメモを取る習慣があった人たちに違いないと思われるフシがある。なぜならば、どうメモすればいいかは書いてあっても、どうすればメモを取ることができるようになるかは、どの本にも書いていないからだ。「思いついたらすぐメモを取れ」とか「癖にしてしまえ」といったようなことは書かれている。だが、「どうすればメモを取る癖がつくようになるか」は書かれていない。まあ、メモの取り方にルールがないように、何をいつどうやってメモするかも、おそらくルールがないのだろうが。  
 わたしの場合、たとえば道を歩いていて目についたことや、耳に入って来たこと、思いついたことから、この「エッセイのようなモノ」を書くことが多い。だが、ほとんどが道を歩きながらなわけで、立ち止まってメモを取る、ということをしない。しない、というよりも、メモすることに思い至らない、といった方がいいかもしれない。使えるな、と思うよりも先に、発想がどんどん進んでいってしまうのだ。  
 たとえば先日、某所を歩いていて、「ペットの床屋さん」という看板が目についた。  
 これを見た瞬間、頭の中に色々なイメージが浮かんで来た。まず、当然のことながら、これは犬や猫の毛をカットしてくれる、いわゆるトリマーとかいう商売に違いない、とは当然思った。そう思いながらも、頭の中の別の場所で「おサルの駕籠屋」というイメージも湧いてきた。あるいは、「犬のおまわりさん」とか。つながりがわかるだろうか。「動物の商売」である。おサルの駕籠屋は、猿が駕籠をかついでいるわけだ。犬のおまわりさんは、犬が警官の制服を着て、交番にいるわけだ。ということは、ペットの床屋さんは犬や猫が鋏と櫛を持って、主人の髪を切るに違いない、と。まあ、童話的に考えればかわいらしい絵柄であるが。  
 だが、そこまで考えたときには、すでに頭の中には別の考えが浮かんでいる。カニの缶詰とか、ツナの缶詰とかである。単に「○○の××」という語呂のつながりだけなのだが。これらは通称「カニ缶」とか「ツナ缶」と呼ばれている。で、思い出したのが、たしか「ネコ缶」ってな商品がなかったか、ということ。これまでの論理からいくと、「ネコ缶」ってのはネコの缶詰ということになって、中にはネコの肉が入っていることになる。あまり買いたくなる商品とは思えない。ちろんわたしだって、ネコ缶の中味がネコの肉ではなく、ネコの餌だということぐらいは知っている。  
 このように「ペットの床屋さん」という看板を見た数秒後には、「ネコ缶にネコの肉が入っていたらイヤだなぁ」という発想にまで飛んでしまうわけで、ほとんど「風が吹けば桶屋が儲かる」の論理展開のようである。あっちの方が、論理の飛躍は少ないが。  
 なんにしても、こうなってくると、何をメモしておけばいいのかわからなくなる。最初に目についた看板を書いておくべきか、最後にたどりついたネコ缶を書いておくべきか。  
さんざん悩んだあげく、このときはとりあえず「ペットの床屋さん」とメモには書いた。 あ、今回はそのメモが役に立ったのか?  



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