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2000.05.17
ジベタリアンと呼ばれる種族がいる。
ベジタリアンの入力ミスではない。ベジタリアンは、色々な理由で野菜しか食べないことを主義としている人々のこと。日本にもいるだろうが、主に欧米諸国に多い。ジベタリアンは、地面に座りこむ人々。欧米諸国にもいるのだろうが、そのほとんどは日本に多い。「地べた」に座り込むことから「ジベタ」リアンと呼ばれるらしいが、誰が言い出したのかは、わたしは知らない。呼称はジベタリアンだが、座り込む場所はなにも地べたとは限らない。階段だったり、駅のホームであったり、電車の床であったりもする。まあとにかく、ところかまわず座り込む人々をジベタリアンと呼ぶらしい。
年齢層は、主に十代後半から二十代前半の若者に集中しているようだが、まれに三十代四十代から、場合によっては五十代六十代ぐらいではないか、と思われるような人もいる。ただしその場合は、あまりジベタリアンとは呼ばれない。単にみっともない中年オヤジだのババアだのと呼ばれたり、中には路上生活者、俗称レゲエのおじさんなんぞも混ざっていたりすることもある。もっとも、外見上そう見えるだけで、実際には十代だったりする人などもいるようで、その区分けは非常に難しい。
あまり好意的な目で見てもらえないジベタリアンだが、個人的には、ミニスカートをはいた若くてかわいい女の子のジベタリアンなんぞは大歓迎である。うまくいけば、パンツが見えちゃったりする可能性もなくはない。まあ、敵もなかなかやるもんで、めったなことでパンツは見せてもらえない。あいにくわたしは度胸がないので、パンツを見るための努力というのはしたことがないのだが、たまたま見えちゃう場合だってある。ただそういう場合は、えてして前出の条件のいずれかが無視されることになる。ミニスカートをはいていない場合は見えちゃうこともほとんどないので、それは別として、残る条件「若い」「かわいい」「女の子」のいずれかが無視されるわけだ。幸運にも、今のところ「女の子」という条件が無視された経験はないのだが。
ジベタリアンの人々は、どういう理由で地べたに座りこむのか。そのあたりの理由は色々と言われている。そのうち最も多い理由として「ったりいから」というのがある。この場合の「ったりい」とは、「だるい。かったるい。疲れる」と同義語と判断して差しつかえない。つまり彼らは「立っていると疲れるから座る」という、至極もっとも、かつ簡単明瞭にして納得しやすい理由で、地面に座りこむのである。これを聞いた学識者面した方々は「若い者がそんなことでどうする」とか「若者の体力低下が目立っている」とか、もっともらしいことをおっしゃる。大きな間違いである。世の中をちゃんと見ていれば、若い世代ほど平気で地べたに座りこむんだ、ということぐらい、すぐにわかるはずである。
たとえば幼稚園児や小学校低学年の児童。もっと若く、幼稚園前の子供たちでもいい。彼らは疲れていようがいまいが、必要とあれば迷わず地べたに座りこむ。極端なはなし、たった今まで普通に歩いていた者が、突然「あ! アリさん!」と言うより早くしゃがみこみ、一緒に歩いていた親をずっこけさせる、なんざぁ日常茶飯事なのである。興味の対象は「アリさん」である必要はない「ミミズ!」でもいいし「ンコ!」でもかまわない。場合によっては「なにこれ!」という本来疑問形であるべき言葉に、どことなく同意を求めるようなニュアンスを含ませる、という高度なテクニックを持った叫びだかなんだかわからないことを口走りつつ、瞬時にして地面にぺたりと尻をつけて、気づいたときにはすでに、そのなんだかわけのわからないモノを指先で突ついていたりする。一瞬遅れて母親の「やめなさい!」という絶叫があたりにこだまする。微笑ましい。
つまり、より若い世代の方が、より地面に近い所で生活しているのである。これは児童心理学でも立証されている(って本気にしないように)。つまり、疲れるから、というのは表面上の理由でしかないのである。わたしはその証拠たる状況を目にしたことがある。
それはある日の電車の中だった。若干立っている人はいるものの、空いている席がないでもない、という状態だった。そこに数人のジベタリアンと思われる若者が乗り込んで来た。乗り込んでくるなり、彼らは空いている席には目もくれず、ドアの横に座りこんだのである。ただ単に疲れているだけならば、席に座ればいいものを、それを無視して床にしゃがみこんだのだ。これはどう考えても「疲れた」意外に床に座る理由があるとしか思えない。もしかしたら、彼らには、電車の座席はお年寄りに譲るもの、という強い信念があるのかもしれない。それを無言で主張している、すばらしい人々なのかもしれない。
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