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[ エッセイのようなモノ ]
知識と常識

2000.05.24

 ある日の電車の中でのこと。ラッシュとまではいかないまでも、まあ結構混んでいた。吊革につかまって、ぼんやり立っていたわたしの耳に、背後のふたり連れの会話が耳に入ってきた。どうやら最近見た映画のタイトルが思い出せないらしい。  
 「なんだっけかなぁ。ロミオとジュリエットとかの」  
 「出た人?」  
 「じゃなくて、原作書いた人。その人が主人公の映画」  
 「誰それ」  
 わたしはここで衝撃を受けた。最後のセリフ、これは明らかに「シェークスピアの名前が出てこない」というものではない。どう考えても「ロミオとジュリエットの作者を知らない」という反応である。  
 ロミオとジュリエットの原作者ってったら、そりゃああた、シェークスピアのことでっしゃろ。で、シェークスピアが主人公の映画ってったら「恋に落ちたシェークスピア」とかいうやつじゃないのかい?  
 と、声をかけたかったのだが、気の弱いわたしにはそんなことはできなかった。そのふたりは「なんだっけかなぁ」と悩みながら、次の駅で降りていった。まあ、映画のタイトルが出てこないのは許そう。しかし、世の中にはシェークスピアの名前を知らない人もいるんだなぁ、と実感したわけだ。  
 似たようなことはほかにもある。  
 ある日、わたしは知り合いと書店に行った。何を買おうというわけではなく、店内をぶらぶらと眺めていたら、山藤章二氏の本が出ていたのである。そこでわたしは、  
 「おお、山藤章二だ」  
 と本を取り上げたのだが、連れはきょとんとした顔で「だれ?」と言う。  
 いや、「だれ」って山藤章二だよ。と言っても相手には通じない。中を見せて「ほら、こういう絵を描く人」と言っても「知らない」の一点張り。そうか。わたしが知っているからといって、誰でも知っているわけではないのだな。  
 いや、もちろんわたしだって、わたしが知っていることや人を誰でも知っているとは思っていない。むしろ、わたしの興味の対象はどちらかといえば偏っている方なので、わたしにとっての常識が他人にとっては常識ではない、ということの方が多いという自覚もある。しかし、いくらなんでもシェークスピアや山藤章二はそんなことはないだろうと思っていた。  
 もしかしたら、今これを読んでいる人の中にも、「山藤章二って誰?」という人がいるかもしれない。まさか「シェークスピアってなに? おいしいの?」という人はいないと思うが、それだってあまり断定しない方がいいのかもしれない。まあ「シェークスピアは知ってるけど、ロミオとジュリエットの作者だとは知らなかった」という人は間違いなくいるに違いない。そういう人は、正直に名乗り出ていただきたい。いや、怒ったり笑い者にしたりはしないから。そうすればわたしも「ああ、やっぱりそういうものか」と納得することができるのだ。  
 つまり、人の知識や常識ってものは、そういうものなのである。  
 そんなのあたりまえじゃん。と思っている人もいるかもしれない。ところがこれが、世の中は広い。  
 たとえばわたしは野球やサッカーに興味がないので、あまり詳しいことはわからないのだが、それでも松坂だのイチローだの中田だのゴンだのぐらいなら知っている。だが、中には「ジャイアンツって、何ジャイアンツ? 阪神ジャイアンツだっけ」という人だっているのである。いや、冗談抜きに。  
 ある人にとってはあたりまえ、常識になることが、別の人にとっても常識といえるかどうか。そのあたりの判断というのは、実は非常にむずかしい。  
 信号が赤なら止まれ、青なら進め、というのはこりゃ常識だろう、と思っていたら、国によってはそうではないところもあるそうで。うなずくのと首をふるのも、どこかの国では意味が逆になるという。こちらは否定したつもりでも、国によっては肯定と取られてしまうわけだ。そうなって来ると、もう何を常識と言えばいいのやら。ひょっとして、世の中には「常識」なんてぇものは存在しないんじゃないか、という気すらしてくる。  
 スポーツが好きな人や、特別好きではなくても、ある程度の知識(「常識」ではなくあくまでも「知識」)を持っている人にとっては「読売ジャイアンツ」は常識の範疇に入るだろう。だがそれを勝手に「常識」と決めつけてはいけないのである。自分が「常識」だと思っていることを相手が知らないからといって、それだけで「そんなことも知らないの?」という目で見るのは間違いなのである。  



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