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[ エッセイのようなモノ ]
わたくし改造計画(肉体編)

2000.07.12

 自分改造計画はまだまだ続く。  
 で、次に考えついたのは、「精神を鍛えるためには、まず肉体を鍛えるべきであろう」という趣旨のもと、体を改造しよう、ということだった。体の改造ったって、別にブラックゴーストやショッカーに頼むとか、ギルモア博士に依頼するとか、そういう改造ではない。それはそれでちょっと誘惑に駆られるところではあるが(笑) クモ男みたいになっちゃうのもいやだしなぁ。  
 で、体を鍛えようと思い立つわけだが、ところがこれがまた……  
 ほとんどの方がご存知だろうと思うが、体を鍛えるってのは、実にかなりの意志の強さを要求されるものなのである。基本的には、毎日とは言わないまでも二日にいっぺん、三日にいっぺん。最低でも週に一回ぐらいは、やるべき運動を繰り返さなければならない。それも同じ動作を何度も繰り返さなければならない。でなければ体を鍛えることにはならない。これにはかなりの意志の強さが必要になる。もちろん、運動することそのものが好きだったり、それがすでに習慣化している場合には、意志の強さなんぞとは関係ないのだろう。人によっては、それが気持ちよさにつながるという話しも聞く。だが、そうでない場合には(少なくとも最初のうちは)、ある程度の意志の強さは必要になるだろう。  
 そしてもちろん、わたしは長年運動とは縁のないところで生きてきた。だから運動することに気持ちよさを感じたことはない。となると、苦しいのを我慢して、運動を続けなければならないのである。これには強い意志が必要になる。  
 もともとわたしが運動をしないのは、わたしの性格によるものが強い。いや、意志の弱さではなく、負けず嫌いなところ。実はわたしは、かなりの負けず嫌いなのである。負けず嫌いのくせに意志が弱い。いや、意志が弱いくせに負けず嫌い、の方が正しいのか? とにかくかなりの負けず嫌い。どのぐらい負けず嫌いかというと、負けるのがいやだから、最初から勝負はしない、というぐらいの負けず嫌いなのだ。  
 だから、子供のころから、スポーツと呼ばれるものはほとんどしなかった。一番嫌いな授業が体育だった。かろうじてできるのが、スキー、スケート、水泳ぐらいだが、それも勝ち負けが絡むようなやり方はしない。  
 ところが困ったことに、わたしの外見は、どうもスポーツをやりそうに見えるらしい。それで、かつては人からスポーツに誘われたこともあった。テニスだのボーリングだの、明らかに点数を競うスポーツに誘われて、まあつきあいで行ったりする。普段まったくやっていないのだから、当然うまくできるはずもなく、ろくな成績は出せない。そこで奮起して、陰で練習を重ねるようならばまだ救いがある。だがあいにくわたしは、意志が弱いのである。練習を重ねるってことは、意志が強くなきゃできないのである。練習をしなければうまくなるはずもなく、うまくないからなおさらやらなくなる。  
 こうしてわたしは、少しずつスポーツから遠ざかり、今ではせいぜいセックスぐらいしかしなくなってしまった。セックスがスポーツかって? そりゃ間違いないでしょう。スポーツ新聞に記事が載ってるぐらいだから。  
 しかし最近は、そのセックスからも遠ざかっているような気がしないでもない。珍しいことに、それはわたしの意思ではないのだが、そういうものに限って、むこうから遠ざかっていく。これではいけない。最後に残ったスポーツぐらい、なんとか維持しつづけたいのだが、いかんせんこればっかりは、一人でできるものではない。どなたか、ご希望の方がいらっしゃいましたら……  
 そういう話しじゃないな。  
 とにかく、こんな人生を歩んできているから、今更何か運動をしようとしても、辛さの方が先に立って、楽しむなんてぇことは絶対にできないわけだ。  
 これでは続くはずがない。三日坊主ならまだしも、一回でやめてしまったりする。これはもう何の役にも立たない。そもそも、意志を強くしたいがための運動なのに、それを続けるために意志の強さが必要になるということは、かなりの矛盾のような気もするのだが、必要なものはしょうがない。  
 たとえて言えば、電話を使う以外に連絡方法がないのに、相手の電話番号がわからないとか、ガス欠状態なのに車じゃないとガソリンスタンドまでは行かれないとか。ちょっと違うか。  
 なんにしても、精神の前にまず体を鍛えるということは、わたしにはできない、ということがわかったわけだ。  
 ではどうしよう、と考えて出てきたのが、自己催眠や自己暗示だった。やっと本題が出てきたが、続くである。  



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