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2000.12.31
これを書いている今現在、今年も残すところあとわずかに二十数時間となった。ということはつまり、今世紀もあと二十数時間ということになる。そこで当然、タイトルの通りに20世紀をふりかえってみようと思う。
と書いたはいいが、よく考えてみたら、わたしは20世紀のうちの半分も生きていない。ものごころついたころから数えると、20世紀の後半三分の一程度しか、実体験としては知らないのだ。そのうえ記憶力が無いに等しいから、覚えているのはもっと少なくなって、実質四分の一ぐらいがいいところだろう。下手をしたら、トータル十年分ぐらいしか、思い出せないかもしれない。そんな人間がわけ知り顔で、よく知りもしない20世紀をふりかえったところで、ろくなふりかえり方をしないのは目に見えている。資料を調べてふりかえる、という手もあるにはあるが、読者諸賢がわたしにそんなことを望んでいるとは思えないし、かりに望まれたとしても、わたしがそんなことをするはずがない。いっちゃぁ悪いが、マスコミがこぞってやっていることを、一緒になってやるほど、わたしは協調性のある人間ではないのだ。
ってことで、20世紀をふりかえるのはやめることにする。どうしてもふりかえりたい、という意固地な人は、どこかよそのサイトでふりかえっていただきたい。
さて、ご存知の方もいらっしゃると思うが、この「エッセイのようなモノ」は、本来毎週水曜日に新作を公開する予定になっている。え、そうだったのか、って? 実はそうだったんですよ。ってことは、それを何度もサボっていることも、既に皆さんご存知のとおり。そして何回かサボった結果、実をいうとこの「エッセイのようなモノ」は、今回が百107回目になる。二、三週間ほど前にそれに気づいて、
「しまった、どこかで一回サボらなければ、暮れに108回目を迎えられたのに」
と後悔したのだった。いやマジで。もちろん、後悔役立たずということわざもあるぐらで(多少違ったかもしれないが、たしかこんな感じのことわざだったと思う)、いまさらどうしようもない。
なんで暮れに108回目がよかったか、ということは、日本人の方ならばおおむねわかってくれると思う。ひょっとして日本の事情に疎い海外の方が読んでいるかもしれないし、日本人の方でも暮れと108という数字が結びつかない方もいるかもしれないので、念のために説明しておこう。
日本には、大晦日つまり十二月三十一日の夜に、お寺の鐘を108回叩く習慣がある。正確には「叩く」といわずに「撞く」というのだが。とにかく、そういう習慣があるのである。なんのためにそんなことをするか、というと、仏教の考え方の中に「煩悩」というものがある。これは人間の欲望だのよからぬ考えだののことで、全部で108あると考えられている。ちなみに、この煩悩がまったくなくなった状態を「悟り」という。で、この煩悩を、鐘を撞くことによって打ち払おう、というのである。お寺の鐘にそんな力があるのなら、大晦日だけといわず、毎日108回撞いてくれればよさそうなものだと思うのだが、どうやらそういうものではないらしい。何事につけ、出し惜しみをして価値を高めるというのは、資本主義社会の常道なのである。仏教が資本主義に根ざしているかどうかは、かなり疑問が残るところだが。
なんで煩悩の数が108か、という点については、かなり嘘っぽい話しがある。人間は、この煩悩のせいで苦労をする。悩み、嘆き、怒り、悲しみ、そういった感情が煩悩なのである。そういう感情があるから、人は苦しむ。つまり四苦八苦するわけだ。ここからが嘘臭さのかたまり。四苦が4×9で36。八苦が8×9で72。あわせて108だというのである。ね、嘘としか思えないでしょ? 本当のところはどうなのか、わたしもよく知らない。
それはともかく、年の瀬にこの「エッセイのようなモノ」が108回目を迎えられていれば、話題としてもタイムリーだったのである。なんせ煩悩のかたまりのような内容ばかりである。これほどぴったりのテーマはなかっただろう。ところが、迂闊にもわたしは一回余計にサボってしまったのだ。そのせいで、今回は残念ながら107回目なのである。まあ、サボらずにきちんと書いていたら、とっくに108回なんて過ぎ去っていたことでしょうが。なんにしても、そういった事情で、せっかくのチャンスを逃がしてしまったために、今回は残念ながら煩悩ネタを使うことができなくなってしまった。と書いてよくよく見れば、今回のネタはほとんど煩悩ネタじゃないか。20世紀最後の「エッセイのようなモノ」も、やっぱりタイトルと内容が一致していなかった。
みなさん、良い年をお迎えください。
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