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2001.01.25
ある日のことである。
わたしが、家の近所をひょこひょこ歩いていたと思っていただきたい。いや、ひょこひょこでなく、ちょろちょろでもぶらぶらでも、なんでもかまわないのだが。それが単なる散歩だったのか、それともどこかに行くつもりだったのか、そのあたりは覚えていない。あいかわらずの記憶力だが、ここではそのときの行き先は、関係ないので割愛する。
赤信号で立ち止まったわたしは、道路の向こう側で同じように立ち止まっている人に気がついた。知っている人である。知っている人なのは良いのだけれど、困ったことに、誰だったかが、さっぱり思い出せない。
知り合いなのは間違いない。間違いないのだが、どういう知り合いなのか、どうしても思い出せないのだ。どうやら会話を交わしたこともあるようで、頭の中では、その人の声も聞こえている。ただ、どんな会話を交わしたのかは、思い出せない。今車道をはさんで向こう側にいるその人は、どちらかというと無表情で、信号が青に変わるのをぼんやり待っているのだが、わたしはどうやら、その人の笑顔を知っているらしい。頭の中にはその人の笑顔が浮かんでいる。しかもその笑顔は、どうやらわたしに向けられたものだったようだ。記憶の中にあるその人の笑顔は、まっすぐこちらを向いている。まあ、敵は男だから、たとえ頭に浮かんだその笑顔が、わたしに向けられたものでなかったとしても、悔しくもなんともなかったが。いや、そんなことよりも、彼はいったい誰なんだ。
笑顔で会話を交わしたことがあるところをみると、道でよくすれ違う人とか、同じ電車によく寄り合わせる人、というような、単なる顔見知り程度というわけではないらしい。だが、どうしても思い出せない。笑顔も声も出てくるのに、それがどういう状況だったのか、さっぱり浮かんでこないのだ。微弱な記憶の教えるところによれば、どうやらその人と会話を交わしたのは、一度や二度のことではないらしい。にもかかわらず、彼がどこの誰だったのか、肝心なところでわたしの記憶力は役に立ってくれない。
やがて信号は青に変わった。
わたしも彼も、ほぼ同時に横断歩道を渡り始めた。彼が誰だったか思い出せないままに、ふたりの距離は近づいて行く。そしてすれ違う瞬間。彼がちらりとこちらを見た。見たような気がした。いや、わたしと彼の視線は、間違いなくしっかりとぶつかった。にもかかわらず、彼の表情は変わらなかった。笑顔を見せるでもなく、会釈をするでもなく、信号待ちをしていたときと同じように無表情なまま、わたしの横をすり抜けて行った。もちろんわたしも、相手が誰なのか思い出せないままなので、しらんぷりをしてすれ違った。ひょっとしたら、会釈ぐらいはするべきだったかもしれない。だが、彼が知り合いだというわたしの考えが、もしかしたら思い違いかもしれない、という不安があって、ついついわたしは彼を無視してしまったわけだ。
わたしにはじつはそういうところがある。道で知り合いに会っても、もし人違いだったらどうしよう、という不安があるから、間違いないとわかるまで、こちらから声をかけたりしないことが多い。わたしは気が小さいのである。
世の中には、人の顔を覚えるのが得意な人もいるし、苦手な人もいる。いまさらこんなことを言い出しても、信用してもらえないかもしれないが、わたしはどちらかというと得意な方だと自負している。なのに、彼がだれだったか思い出せない。
そういえば、性風俗のお店で働いている女の子が、久しぶりに来た客の顔を見ても、以前来たことのある客だということを思い出さなかったのが、チンチンを見た瞬間に、
「あら、半年ぶりぐらい?」
といったとか、いわなかったとかいうジョークがあるが、いくら何でも、わたしがそのすれ違った彼のチンチンを見れば思い出すとは思えない。見たくもないし。まあ、風俗店の女の子だって、よほど変わったチンチンでもない限り、覚えちゃいないでしょうけど。
さて、どこの誰だかわからない知り合いと、交差点ですれ違ったわたしだが、二、三歩進んだところで、はたと気がついた。わたしの後方、すれ違った彼が向かっている方向には、一軒のコンビニエンスストアがある。わが家からは一番近いコンビニだ。当然わたしもしょっちゅう利用している。と、ここまで書けば、みなさんもおわかりだろう。彼は、そのコンビニの店員だったのだ。彼の笑顔は営業用のスマイルだったわけだし、交わした会話は「暖めますか?」「お願いします」とか「箸はお入れしますか?」「いや、いいです」とかいった程度のことだったわけだ。思い出せないわけである。これが女の子だったりすれば、そんなことはなかったんだろうが。
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