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2001.03.09
わたしが住んでいる横浜市でも、最近少しずつ、ゴミの分別収集が行われるようになってきた。ということはつまり、横浜市ではつい最近まで、ゴミの分別収集は行われていなかった、ということなのだが。なぜ分別収集していなかったかというと、なにしろ横浜市は、市民税が高いのである。高い市民税を取るだけあって、高性能の焼却炉があるのだ。詳しいことは知らないが、何千度だか何万度だかの高熱でゴミを処理すると、ダイオキシンだかシノヤマキシンだかが出ないのだそうで。だから今までは、紙だろうが生ゴミだろうがペットボトルだろうが、カンだろうがビンだろうが、全部いっしょくたに燃やしてしまっていたわけだ。ホントにそうかどうかは知らないが。
それが数年前から、ビンとカンだけは別に集めるようになった。そして今度は、ペットボトルも別扱いになった。つまり現状では、ビン・カン、ペットボトル、その他のゴミ、という分け方なわけである。もちろん、粗大ゴミだの産業廃棄物だのは、まったく別扱いである。
別々に集めるったって、ビンとカンはいっしょくたなわけだし、紙と生ゴミを分けているわけでもないのだから、集めたあとにどんな処置をしているのやら。集めた先で、誰かが再度分別しなおしたりしているのだろうか。それとも、あのゴミ収集車が実はえらく高性能で、中で自動的に分別してくれたりするのだろうか。まさかとは思うが、集めるときは別でも、結局すべてのゴミが同じ場所にたどり着いて、同じ火葬という運命をたどっているんじゃないか、という気がしないでもない。こういうことは想像するだけなら良いが、下手に大声でふれまわったりすると、横浜市役所秘密情報部(ってのがあるかどうかは知らないが)あたりから、全身黒ずくめの諜報部員がやってきて、有る日突然わたしは行方不明になってしまったり、不慮の事故で死んじゃったりするのかもしれない。あるいは、過去数日の記憶を失ってしまったりとか。そういえば、今回のネタはだいぶ前から書こう書こうと思っていたのに、ちっとも考えがまとまらなかった。やはり市当局の妨害工作があったに違いない。
ってなくだらない妄想の広がりは、このあたりでやめして。
実際、分別収集をするようになったのは、多分に世間の風当たりのせいだろう、と勝手に想像している。エコロジーがどうのとか、再利用がどうのとかいう理由で、ゴミを細かく分類して収集するようになってから、いったいどのぐらいの年月が過ぎ去ったのか、歴史に疎いわたしはよく知らないが、この、ゴミの分別・再利用とかいう発想のせいで、世の中のみんなが困っていると聞く。
なにしろ、細かいことをいう地域では、捨てるときには、かなり細かく分けなくてはいけないらしい。紙と金属とプラスチックとガラスと繊維と生ゴミと。とにかく細かいらしい。アルミホイルの箱についている、金属製のギザギザすらも、剥がして別にしなければならないのだそうだ。
聞くところによれば、ウレタン製の容器も、綺麗に洗って分別して出さなければならない地域もあるという。スーパーで肉だの魚だのを入れて売っているあの容器だ。ホカ弁や納豆が入っている容器、と言った方が、わかる人もいるかもしれない。あれを、台所用の洗剤でしっかり洗って、指定された回収場所に出さないと、地域で村八分にされちゃったりするのだそうだ。そうやって綺麗にして回収した容器を、そのまままた使うとしたら、あんまりうれしくない。まあ、使うとは思えないが。だいたい、洗剤で徹底的に綺麗にする、ということは、その結果大量に出る汚れた水を、下水に流すということだ。こりゃもう、川も海も洗剤で綺麗に洗っている、ということか。さすがは地球にやさしい考え方だ。
そこで疑問に思ったのだが、衣類を捨てるときには、いったいどうしたら良いのだろうか。金属製のファスナーだの、プラスチックや木や、場合によっては貝かなんかでできているボタンは、当然取り外すとして。気になるのは布の部分である。綿100%なんてのは、わかりやすくてよい。ポリエステル100%の衣類なんぞは、当然のことながら、プラスチック製品扱いしているはずである。していなかったら、何のための分別収集なのかわからなくなる。問題は、混合製品である。綿50%、ポリエステル50%なんてぇ品物だ。これだって、分別しなければいけない。繊維を一本一本取り出して、きちんと分別する必要がある。しなければならない。
雑誌だってそのまま出してはいけないはずだ。雑誌というやつは、あれは紙だけでできているわけではない。綴じるのに針金を使用しているのだから、紙と金属はきちんと分けて出すべきである。そこまでするのが正しい。
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