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[ エッセイのようなモノ ]
電車は止まるよいつまでも(前編)

2002.05.22

 普段、通勤や通学に電車を使っている人ならば、誰もがやっていることだと思う。いや誰もが、と言ってしまうと言い過ぎかもしれないが、少なくとも半数以上の人はやっているはずだ。自分が降りる駅に着いてから、できるだけ歩かずに済むようにするためには、どの車両のどの扉が最適か考えて電車に乗る、ということを。  
 何両目のどの扉、ということまで計算していなくても、この駅のこのあたりで電車に乗れば、降りる駅のこのあたりになるはずだ、ということぐらい、考えて乗っている人は多いはずだ。  
 場合によっては、毎日のように電車を利用して、しかも同じ駅で乗り降りしているにもかかわらず「そんなこと、全然考えてませんでした!」という人もいらっしゃるかもしれない。もちろん、駅で降りてからそんなに急がないからとか、その位置だと混むのがわかっているからいやだとか、はっきりした理由があるのならば別だが、そうではなく、毎日ただ漠然と電車に乗り、なんとなく降りているようだったら、その人はちょいと学習能力に不自由な人なのかもしれない。おおらかな人と呼んであげてもいいが。  
 中には、そういうことをするから乗り降りの多い駅の階段に近い車両が混むんだとか、そうまでして急ぎたいのか、という意見もあるだろう。  
 だが考えていただきたい。駅に着き、電車を待つ時間が5、6分あったとする。おそらくそれだけあれば、ホームの端から端まで歩けるだろう。ラッシュアワーで無茶苦茶混んでいたらきついかもしれないが、それでも多少の移動はできるはずだ。  
 仮に、駅に着いて5分間その場でぼんやり立っていて、そのまま電車に乗り、降りる駅に着いてから、階段まで5分かかって移動したとする。乗る駅でぼんやり5分。降りた駅で移動に5分。合計10分無駄にしている計算になる。これを朝晩やったとすると、一日で20分。週休二日ならば一週間で100分。一ヶ月で約6時間半、一年ならば80時間近く無駄にしている計算になる。駅での移動だけで、約3日を費やしているわけだ。  
 こりゃどう考えても、乗る前に移動しておくべきだろう。って、実はこの計算方法は根本が正しくないのだが(笑)  
 わたしも一応サラリーマンで、おおむね毎日同じ駅で乗り降りしているから、乗るときには降りる時のことを考えて乗る。  
 ただ、場合によってはホームでの移動が終了する前に電車が来てしまうことだってある。そういう場合、電車の中が空いていれば電車内で移動するが、混んでいてそれができない場合だってある。そういう場合は通常あきらめる。あきらめるが、自分が降りる駅についたらおおむねこのあたりになるだろう、ぐらいの予想はつくものだ。毎日同じ駅で乗り降りしていれば、そのぐらいのことはできるようになるだろう。  
 だが、先日のこと。  
 仕事で品川から帰ろうとしたときのことだ。ホームに降りる階段にたどり着いたときには、すでに電車が到着しているのが見えた。普段のわたしならば、こういう場合に急いだりしない。妖怪おまぬけ小僧にからかわれるのはいやだから、わたしは駆け込み乗車というのは極力しないことにしている。ところがこの日は、駈け込まずとも電車に間に合った。もちろん乗った位置は、降りる駅からすると階段からはちと遠い。夕方のラッシュの時間だから、電車内を移動することもままならない。  
 まあ、急いで家に帰ったところで、何があるわけでもなし。わたしはそのまま電車に乗っていた。  
 やがて電車は、わたしが降りる駅に到着した。着いたのだが、なんだかおかしい。わたしが想定していた位置よりも、ずっと手前なのである。まあ、天才といわれる(誰が言ってるんだ?)わたしだってミスはする。おそらく想定のしかたに何か勘違いがあったのだろう、ぐらいに思いながらドアに向かおうとしたのだが、どうも車内の様子がおかしい。  
 やはり列車は、本来の位置よりも手前に止まっている。しかも、いつまでたってもドアが開かない。他の乗客たちもいぶかしげだ。  
 こういう時におもしろいのが、ほとんどの人が天井を見上げている、ということ。天井を見たからといって、何があるというわけでもないはずなのに、一様に上を見ている。おそらくは車掌が流す車内放送用のスピーカーが、天井についているからだろう。いつも上から声が聞こえてくるから、みんなその声を待っているのだ。ほとんど、天の声を待つ民衆といった風情。  
 そして、車内のざわつきがピークに達した頃、まるでそれを待っていたかのように、車掌の声が狭い車内に響き渡った。  
つづく)  



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