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[ エッセイのようなモノ ]
走っちゃだめヨ

2003.07.08

 困ったことになっている。  
 ここ数日の間に、エッセイのようなモノを何本か書いた。何本か書いてはいるのだが、どれひとつとして、最後まで書き終えていないのだ。しっかりしたネタがあり、きちんとオチまで決まっているにもかかわらず、書いているとオチに到達してくれないのである。  
 気が付くと、話しがそれている。  
 いつものことだろう、って? いや、いつものヤツは、意図的に途中から話しを変えているのだ。いや、ホントに。意識してやってるんだってばさ。それが今回は、わたしの考えとは関係なく、話しがそれてしまうのだ。これは困った。  
 今確かめてみたら、書きかけの原稿が四つもある。これが五つ目だ。どれも原稿用紙に換算して四枚半ほどで終わっている。いつもならそこからオチに向かうあたりである。にもかかわらず、そこまででピタリと止まっているのである。  
 これがスランプとは思えない。なにしろスランプってぇのは、それまで書けていた人が書けなくなることを言うのであって、もともと書けなかった人間が今まで以上に書けなくなっても、それはスランプではなく……  
 悪化?  
 アッカでもイーアクセスでもいいのだが、これは大変困ったことである。ちなみにうちはヤフーBBである。ときどき切れる。  
 いや、そうじゃなく。  
 これを打破するための方法は、いくつか考えられる。  
 まず、話しが横にそれないように注意しながら書く、という基本的かつ古典的かつ面白くもなんともない方法。そんな、注意しただけで治るぐらいだったら誰も困ったりはしない。いや、困っているのはわたしだけなんだが。  
 いろいろな勉強方だのハウ・トゥ系の文章なんぞを見ると、時々こういう書き方をしている文章がある。曰く、  
 「○○○をするときには、×××になりがちです。×××にならないように注意しましょう」  
 なりがちなら、そうならないような方法を指導するのが正しい指導ってもんだろうに。ただ「注意しましょう」とはなにごとか。注意しましょうと注意するぐらいは誰でもできるのだ。注意しなくて済むように注意するのが、正しい注意のしかただろうと思うのだが、いかがなもんだろう。  
 また話しがそれているような気がする。  
 次の方法としては、話しが横にそれても気にしない、もしくは気にしなくても良いような文章にしてしまうという、あたかも「エッセイのようなモノ」の書き方のような方法。平たくいうと、行き当たりばったりで文章を書くわけだ。これだとたしかに、途中から話しが横道にそれてしまうことはない。なにしろ、もともとメインストリートがないのだから、横道も裏道も存在しないわけだ。  
 これがまあ、普段の「エッセイのようなモノ」の書き方に一番近い。最初に言ってることと違うって? 書き手が展開を気にしていないのだから、読者も展開を気にしてはいけない。それがこの書き方で書かれた文章を読むときのルールである。  
 この方法の困るところは、書き手にすら先が見えないので、規定の原稿用紙枚数に収まるかどうかわからない、ということだろう。  
 なにしろすでに四枚半。この先どういう展開になるのか、今現在わたし自身がわかっていない。マジで。  
 さて、話しが横道にそれてしまう場合の最も有効かつ効果的かつ簡単な方法は、おおかたの読者の予想通り「書かない」である。書かなければ横道にそれることは絶対にない。これは親が小さな子供に何度も注意する論理である。つまり、  
 「転ぶから走っちゃだめよ」  
 である。これは転ぶことを避けるためには、走らなければ良い、ということだ。走らなければ転ばない。みごとな教育である。この論理に従えば、書かなければ、横道にそれることもない。この「転ぶから走っちゃだめよ」という教育を、われわれは幼いころから親に叩き込まれているのである。これは各自の頭に染み込んでいるはずである。特にわたしの頭には強く刻み込まれているようだ。  
 この論理にもとづいて、わたしは横道にそれないようになるまで「エッセイのようなモノ」を書かないことにした。書かなければ、横道にそれて困ることもないのだから。  
 問題は、横道にそれないかどうかを確認するためには、「エッセイのようなモノ」を書かなきゃいけないということだ。この問題を解決するための有効な方法はいくつかある。あると思うのだが、今は思いつかない。  
 ということは、結局まだ書きつづけていかなきゃいけないってことか?  



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