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[ エッセイのようなモノ ]
だから動いてるんだってば

2006.02.14

 前回、地面は動いていない、ということを見事に証明した。  
 まだ納得できない方は、とりあえずミニカーを用意していただきたい。チョロQあたりだとなお良い。  
 そいつの車体を持って、タイヤを思い切り回転させていただきたい。そのとき回っているのは、タイヤの方だ。ところが、その状態で、車体から手を離してタイヤの方を持つと、車体の方が回り始める。状態としては同じはずなのに、車体を固定するとタイヤが回っていることになり、タイヤを固定すると車体の方が回っていることになる。さて、回っているのは車体かタイヤか、ということになる。まあ、うまくやらないとできないんですけどね。  
 これを相対的な見かた、なんていったりすることもあるかもしれない。Aから見た場合と、Bから見た場合とで、まったく考え方が変わってしまうということだ。  
 そういう場合に良くあがる例が、善と悪。  
 善は善で、悪は悪でしょ、なんて思っちゃいけない。それは、あなたが善を善だと教えられてきて、そう信じているからだ。いや、なにもそれを間違いだ、と言うつもりはない。何かを信じるのは大事なことだ。ただし時々は、ホントに自分の考えは正しいのだろうか、と気にしてみるのもいいかもしれない。  
 ひょっとして、自分が正しいと信じ込んでいることが、実は正しくないのかもしれない、なんてことがあるかもしれない。かもしれないが多いかもしれない。  
 まあ、そんな大それたところまで行かなくても、もっと近くで相対的なものの考え方を確認することはできるんですけどね。  
 それは、迷子になったお子さん。  
 遊園地でもどこでもいい。お父さんお母さんとはぐれたお子さんが泣いているとしよう。一般的には、これを迷子と呼ぶ。しかし、彼(か彼女か知らないが)の言い分では、自分は迷子ではない。迷子になったのは、お父さんだかお母さんだかの方なのだ。「お母さんがどっか行っちゃった」なのである。  
 そう、迷子になったお子さんには、自分が迷子であるという認識はほとんどない。だって、自分はちゃんとここにいるんだから。いなくなったのはお父さんお母さんなんだから。自分が迷子のはずないじゃないか!  
 今ここで「そうそう、子供ってそういうところあるよね」と思った人。その考え方、ホントにそれであってます?(笑)。と疑ってみるのも大事なことなんですよ。なにしろ、本当に親の方が迷子という場合も、少なからずあるらしいから。  
 で、前回のラストで「地べたが動いてるなんて、絶っ対に信じねぇぞ」ってなことを書いたのだが、実は地べたが動くこともある、ということを、わたしは知っている。正確には、地べたが揺れる、だが。  
 そう、地震。  
 この地震という言葉、「地」で「ち」なんだから「ぢしん」だろうと思うのだが、パソコンで変換しようとしても「じしん」でないと出てこない。「ぢしん」と入力しても変換されない。辞書で調べていないので、本当はどちらなのか、よくわからない。鼻血は「はなぢ」でなければ出てこない。おなじ「ち」と読む漢字なのに、どういう違いがあるんだろう。ちなみに「痔」は、よく看板なんぞに「ぢ」と書いてあったりするが、これも「じ」でないと変換されない。  
 それはそれとして、地震である。  
 地震の原因にはいつくかあって、一般的なものとしては、火山性のもの、マグマの対流でプレートがどうのこうで起きるもの、ナマズが暴れたときに起きるもの、曙だのKONISIKIだのが転んだり走ったりした時に起きるものなどがある。最近では、地下水のくみ上げすぎで空洞ができて起きる、超局地的な地震(ほとんど陥没に近いと思うが)のようなものまであるらしい。  
 ここ数年、あちこちで大きな地震があって、被害にあって苦労している人も多いと思う。いまだに自分の家に帰れない人もかなりいるはずだ。なにしろ相手が地面なだけに、文句の持って行きどころがないのが辛いだろう。  
 心配なのは、首都圏でかなり長い間大きな地震が起きていないことだそうで、下手をすると関東大震災以上の地震が起きる可能性もあるという。そういう場合、もちろん基本的には、死んだりはしたくない。とはいえ、中途半端な状態で生き残るってのも考えものだろう。  
 大怪我をして動けないぐらいならまだしも、ひとりで生きていくのが困難な状態で生き残っても、まわりに迷惑をかけるだけだ。  
 ってなことを言うと、家族から「馬鹿なことを言うもんじゃない!」と怒られちゃったりする。怒ってくれないと、少し悲しい。怒ってくれないような気もするが……  



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