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これであなたもエッセイのようなモノが書けるとは思えない (横書きモード) |
| まえがき | まずはテーマを決めよう | ネタを集めよう | タイトルの決め方 |
| どう書けばよいか | 効果的な展開 | オチのつけかた | 秘伝 |
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2002.01.25
エッセイのようなモノを書く場合、テーマなどは必要ない。難しいテーマを設定することで、立派な文章を書いたような気になることもあるが、そんなものはどうせ幻想である。エッセイのようなモノを書くような奴に、立派な文章など書けるはずがないのである。そもそも、偉そうなテーマを立てることによって、それを理解できない読者が離れて行く可能性を考慮すると、むしろ、テーマなどは邪魔になることの方が多いかもしれない。 もちろん、テーマを設定してはいけない、という意味ではない。テーマを設定しようがしまいが、それは好き好きなのだが、どうせ高尚なテーマなんぞ設定したところで、読者がついて来られるはずがないのだ。だったら、テーマなんぞ設定するだけ無駄というものだろう。無駄だとわかっていることをわざわざやるのは、どう考えても無駄なことだ。って、あたりまえだが。 そうは言いつつも、ついうっかりテーマもどきを設定してしまうこともある。そういう場合にはあっさりと諦めて、設定してしまったテーマに添って書くしかない。無駄なことなのに。 無駄と知りつつもテーマを設定する場合、気をつけなければならないことがある。 まず、読者に媚びてはいけない、ということだ。読者が何を望んでいるのか、などということを考えてテーマを設定してはいけない。そんなことをしても、立派な文章は書けない。 読者が何を望んでいるかを考えないとすると、ではいったい何をテーマに据えれば良いのだろうか。これは考えるまでもない。自分の勝手な主張をテーマにすればよいのである。なにしろ、一番偉いのは作者なのだ。作者は神なのである。神が信者に媚びる必要はない。作者の勝手な主張を、読者に押し付けてやれば、それで充分だ。そもそも、作者とは最初の読者でもあるのだから、その最初の読者が満足するような文章を書いておけば、それで良い。 しかしまあ、たまにはお布施(誉め言葉)が欲しいこともあるだろう。そういう場合には、喜んで読者に媚びよう。いや、別に喜ぶ必要はないのだが。 では、読者に媚び……共感を与えるようなテーマとは、どういうものか、ということだ。 まずもっとも共感を得やすいテーマに、体制批判というのがある。 ほとんどの読者は、おそらく反体制側に位置しているはずである。そして体制に不満を持っているはずである。仮に不満を持っていないとしても、こちらから不満材料を提示してあげれば、愚かな大衆どもは、一緒になって不満を口にするようにできている。それが大衆というものだ。したがって、体制への不満やら批判やらをテーマにすれば、おおかたの読者の共感を得ることができるのである。 問題は、その文章を体制側の人間が読まないとは限らない、ということである。その場合には、逮捕されたり暗殺されたりする危険もあるのだが、それはそれで、作者冥利につきる、と解釈すれば成仏できる。 場合によっては、あなたの書いた文章が体制に影響をおよぼし、世界が変わる可能性だってある、かもしれない。まあ、可能性としては0以下だろうが。 次に読者の共感を得やすいテーマとしては、若者批判があるだろう。 最近の若者に関する批判や不満の数々を並べるだけで、ほとんどの読者は共感する。もちろん、読者がすべて年寄りとは限らない。最近の若者がそれを読んでしまう場合だってある。だが、そういう場合も心配はいらない。エッセイのようなモノを読んでいる若者のほとんどは、若者批判の文章を読んでも、自分がそれに該当するとは思っていないのだから。 稀に、猿と同等もしくはそれに近い知能指数を持った若い読者がいて、あなたの書いた文章を正確に理解してしまい、腹を立てることもあるかもしれない。夜道で金属バットを持った若者に取り囲まれる危険も、ないとはいえない。まあ、たとえ袋叩きにされたとしても、作者冥利につきる、と考えれば成仏できるだろう。 これと同じようなテーマで、年寄り批判というのもある。 これも若者批判と同様に、年寄りに対する批判や不満の数々を並べるだけ。もちろん、読者の中には年寄りもいるかもしれないが、ほとんどの年寄りは、自分を年寄りだとは思っていないのだから、気にすることはない。仮に年寄りだという自覚のある年寄りがいたとしても、若者の場合と同様、自分を棚に上げていることがほとんどなので、書いてあることが自分の言動と一致しているなどとは、夢にも思わない。万が一、まだボケきっていない年寄りがいて、あなたの書いた文章に腹を立てたとしても、金属バットを持って襲いかかって来ることはめったにないし、来たとしても返り討ちにしてやれば良い。きっと成仏してくれる。 他にも、女房批判、亭主批判、幼児批判、マスコミ批判、読者批判、批判ばかりしている他のエッセイ批判など、基本的には何かを批判しておけば、おおかたの読者の共感は得られる。平たく言えば「批判」こそエッセイのようなモノの最高のテーマなのだ、ということだ。これを使わない手はないだろう。 もちろん、何を批判するにしても、自分自身を棚上げすることを忘れてはいけない。まあ、忘れたところでたいしたことはない。たかだか自己嫌悪に陥るか、筆が進まなくなるだけのことだし、作者は最初の読者である、という論理に従えば、作者だって自分の書いていることが自分にもあてはまる、なんて思ってもいないだろうから。 さて、たまに簡単な批判テーマでは騙せない、悪知恵の働く読者がいる。そういう読者を敵に回してしまった場合には、批判テーマは通用しない。その場合には、知的欲求を刺激する、という姑息なテーマを使用する。 これは、読者が知らないであろう情報を親切にも教えてあげることによって、読者の欲求を満たしてやろう、という考え方だ。言うなれば、腹を空かせた野良犬に餌をやって手なずける、ということ。 このテーマの場合、当然のことながら、作者の方が読者よりも知的水準が高くなければならない。無知な大衆に、高度な知識を分け与えてやるつもりで書かなければならないのだから。作者のIQが150以下だと、実現できないかもしれない。わたしのように謙虚な性格の場合、これはなかなか難しい。 しかし、そんな心配はいらないということに、最近やっと気がついた。読者なんぞ、どうせたかがしれているのだ。「ITってどういう意味だ」ぐらいの情報で、結構満足してしまうものなのである。それで満足できないような読者は、「エッセイのようなモノ」など読む暇があったら、もっと知的な文章を読んでいるはずである。したがって、与える知識は嘘でも良い。どうせ気がつきゃしないって。 極まれに、どんなテーマを設定しても騙されてくれない、しつけの悪い読者もいるだろう。そういう場合には、もう諦めて、テーマの設定をしないのが一番良い。そういう読者を相手にした場合、どうせどんなテーマを設定しても、うまく騙せないのだ。いくらがんばってテーマを設定しても、無駄な努力なのである。そう考えると、どんな人が読むかわからない状態でテーマを設定することには、やはり無理があるのである。 つまり、最初に言ったように、エッセイのようなモノにはテーマなど必要ないのだ、ということ。 それでも、どうしてもきちんとテーマを決めないと気がすまない、という人は、エッセイのようなモノなんぞ書いちゃぁいけない。 |