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これであなたもエッセイのようなモノが書けるとは思えない (横書きモード) |
| まえがき | まずはテーマを決めよう | ネタを集めよう | タイトルの決め方 |
| どう書けばよいか | 効果的な展開 | オチのつけかた | 秘伝 |
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2002.01.25
エッセイのようなモノを書く場合に、ネタなんぞ必要ない。日々いろいろなことに注意を払ってネタをかき集めたところで、実際に書くときには、どうせ全部忘れているのだから。ネタなんぞなくても書き始めることはできるのだ。いざとなったら「ネタがない」ということをネタにして、二、三本でっちあげて読者をごまかすことだってできる。「エッセイのようなモノを書く時間がない」ということをネタに、エッセイのようなモノを書くことだって、できなくはないだろう。 そうはいっても、確かにネタがあった方が書きやすいということはある。まあ、ネタは集めておいても邪魔になることはないだろう。では、どうやってネタを集めるか。 最も簡単な方法は、自分の性格を変えることである。感情の起伏の激しい性格になれば、ネタは集めやすい。すぐに何かに感動する。ちょっとしたことですぐ腹を立てる。箸が転がりそうになっただけで笑う。悲しいことが起きたらどうしようと考えるだけで泣けてくる。こういう性格の人は、ネタ集めに困らない。感動にしろ怒りにしろ笑いにしろ悲しみにしろ困惑にしろ驚愕にしろ疑問にしろ不安にしろ何にしろ、自分の感情を激しく揺さぶる何かについて、自分の考えを書けば良いのである。読者は、書き手の熱い思いを待っているのである。 どんなことにもすぐに気持ちを動かされてしまう人は、それだけで簡単に「エッセイのようなモノ」を書くことができる、ということである。 そういう性格をまったく持っていないという人も嘆くことはない。ちょっとやそっとでは感動しない、絶対に腹を立てない、何があっても笑わない、どんなときでも悲しくならない。こういう性格の人も、ネタ集めには困らない。まわりで起きている状況を、冷静に見つめることができるのだから。読者は、そいういう冷静に物事を見る眼を求めているのである。 どんなことにも動じない心を持っている人は、常に冷静な判断を下せるのだから、自分が下した判断をきちんとメモに残し、それをネタにエッセイのようなモノを書くことができるのである。 どちらの性格も、まったく持っていない、という人も、心配する必要はない。 すぐに感情的になることもなく、かといって冷静に物事を見ることもできないとしても、気にしなくて良い。何も自分の気持ちに忠実にエッセイのようなモノを書かなければいけない、というわけではないのだから。とりあえず感動したフリをしてみる。たぶん普通の人はここで感動するんだろうな、というところで、自分も感動したような顔をしておく。どうせ、世の中のほとんどの人がそのレベルなのである。ホントに感動している人などいないし、もししょっちゅう感動している人がいるとしたら、その人は感動しすぎなのである。心を強く動かされなければモノが書けないなんて、思ってはいけない。 最悪、少なくとも「どちらの性格も持ち合わせていない」というネタはある。 両方の性格を持っている、という人は、神に感謝すべきである。そういう人こそ、エッセイのようなモノを書くために生まれて来た、といっても過言ではないのだ。 何かに激しく感動している最中に、冷静に考えることができる判断力を維持できる人は、感動している自分の気持ちを冷静に見つめて、それをメモすることができる人なのだ。まあ、場合によっては二重人格とか精神分裂とかに分類される性格かもしれないが。そういう人こそ、誰に頼まれてもいないのに、エッセイのようなモノを書きまくるべきなのである。あるいは、すでにそういうことをしている人物が、そういうわけのわからない性格なのだ、ということもできるか。 早い話しが、エッセイのようなモノを書くのに、最も適した性格とは、二重人格ということになるなのだが、そもそも「エッセイのようなモノ」を書こうなどと思った時点で、その人の性格は破綻しているのだから、特に気にすることはないだろう。 まともな神経の持ち主が、自分の異常な性格を世間に知らしめることになるような文章を、好んで書き始めるとは思えない。これはもう、どう考えても性格に異常をきたしているとしか考えられないのだから、あと一歩踏み出して、二重人格や三重人格になるのはたやすいことだろう。 そもそも読者は、まともな精神の持ち主が書いた、まともな文章を望んでなどいないのである。おかしな考え方の持ち主が、おかしな視点で世の中を見ているからこそ、読者はその文章をおもしろがるのだ。だから、もしあなたの書いた「エッセイのようなモノ」が、おもしろくないと評価された場合には、自分が特別ではなく、あたりまえの平凡な人間として扱われたと、腹を立てなくてはならない。もちろん、腹を立てたその状況を克明に記憶し、メモとして残し、やがてはエッセイのようなモノとして書き上げなければならないことは、いうまでもない。 まあ、一般的には日々の生活の中で気づいたことや、思ったことや、考えたことをちょいとメモに残しておけばよいのである。どうやってメモに残せばよいのかは、こちらに詳しく書いてない。 何をネタとして書き残すかは、人それぞれなのだが、単純に言えば自分の興味の対象で構わない。自分が興味を持っていないことを、無理やり書いたとしても、それは読者にとってはもっと興味が持てないものになってしまうのだから。 しまった、まともになっちまった。 まあ、どうやってメモしようとそれは個人の自由だが、メモなんぞするだけ無駄という意見もある。どうせ実際に書くときには、メモのことなんぞ忘れているだろうし、仮に覚えていたとしても、メモはどこかにいってしまっているだろうし、万が一ちゃんと残してあって、そのメモを引っ張り出して来たとしても、字が汚くて読めたものではないのは明らかなのだから。ちゃんと読めるような字で書いてあるようなメモを取る人が、エッセイのようなモノを書くはずはないし、そもそもちゃんと読めるものはメモとはいわない。 冒頭でも述べたように、どうせネタなんぞなくたってエッセイのようなモノはどうにでもでっち上げることができるのだから、苦労してメモしたり、それを整理したりする必要はないだろう。そんな余力があったら、テトリスをやり続けるとか、インターネットでエロ画像をダウンロードしまくるとか、「エッセイのようなモノ」を読みまくるとか、もっと建設的なことをやるべきだろう。 エッセイのようなモノを書くような奴に、建設的なことができるとしたら、の話しだが。 |