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これであなたもエッセイのようなモノが書けるとは思えない (横書きモード) |
| まえがき | まずはテーマを決めよう | ネタを集めよう | タイトルの決め方 |
| どう書けばよいか | 効果的な展開 | オチのつけかた | 秘伝 |
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2002.01.25
さて、いよいよ本格的に書き始めるわけだが、ここで気をつけなければならないことがある。書き出しに凝ってはいけない、ということだ。どうせ読者は書き出しなんぞ気にしちゃいないのだから、凝った書き出しにしたところで、誰に誉められるわけでも、感謝されるわけでもない。 そもそも、場合によってはテーマも決まっていない、ネタもない、したがってタイトルなんぞつけられるはずもない、という状況で書き始めなければならない場合だってあるのだ。もちろん「エッセイ」の場合はそういうことはない。テーマもネタもないのにエッセイを書こうとする人はまずいないだろう。しかし「エッセイのようなモノ」となると話しは違う。なんにも決まっていなくても書き出せるのである。 やり方はいくつかある。 まず回想方式。これは「いつのことだったか忘れたが」と書き始めるのである。そこまで書いてから「さて何のことを書こう」と考えれば良いのである。もちろん、本当にいつのことだったか忘れている必要はない。何年何月何日の何時何分何秒までしっかり覚えていたとしても、そこまで書く必要はないばかりか、書かない方が読者の興味を引くことになるのだ。 読者は「いつ起きたことなのか覚えていなくても、起きた内容自体はしっかり覚えているぐらい、衝撃的なことだったのか」と、好意的に解釈してくれる。してくれない読者は無視してよい。 「いつのことだったか忘れたが」と書いたあとには、何を書いてもかまわない。実をいうと、この「いつのことだったか」というキーワードによって、読者の頭の中には「いったいいつだったんだ!」という疑問が強く残り、その後に何が書かれていようとも、あまり印象に残らなくなっているのである。読者は、それがいつ起こったことなのかを気にするあまり、何が起こったのかを見過ごしてしまう。その隙に、話しを先に進めてしまえばよいのである。 別名「猫だまし」方式。 ただし「いつのことだったが忘れたが、何が起こったのかも忘れた」と書いてはいけない。それをやると、読者に「こいつはバカだ」と看破されることになってしまう。 この方法には、他にも「ある日のことだった」で始める手もある。この場合には、何でもない日常から入っていくことによって、読者を安心させる。読者が安心している隙に、話しを先に進めてしまうのである。 このやり方の便利なところは、「ある日のことだった」に続けて、何でもない日常を克明に描写することで、枚数が稼げるということだ。規定の枚数が原稿用紙五枚だったとしたら、三枚目ぐらいまでは、ある日の自分の行動を、順を追って説明して行くことができる。 たとえば、隣の家に泥棒が入ったとしよう。その場合でも「ある日のことだった。隣の家に泥棒が入った」などと書き始めてはいけない。まず、自分がどういう場所に住んでいるかをきちんと説明する。そうしなければ、読者は隣の家をイメージすることができない。基点となる著者の家をきちんとイメージした上でなければ、隣の家に移ることなどできないだろう。 もしそれが過去のことで、現在住んでいる場所とは異なる場合には、もちろん現在住んでいる場所の説明をきちんとした後に、当時住んでいた場所の説明をしなければならない。そうしないと、読者は泥棒が、いま住んでいる家の隣の家に入ったと思ってしまう。読者にそういうつまらない間違いを起こさせないためにも、基本をきちんと説明しなければならないのである。 エッセイ書き方の場合には、できるだけ早く本題に入れ、と教えていることもあるようだが、「エッセイのようなモノ」の場合にはそれは必要ない。何でもない日常をじっくりと書き、枚数が尽きたころに唐突に事件を起こす。場合によっては事件など起こさなくても良い。読者が何か起きることを期待していたとしても、読者の期待通りに展開する文章など、面白いはずがないではないか。 この「ある日のことだった」で始まるやり方の場合、内容はできるだけ日常に密接したものが良い。ぬるま湯につかったような内容で、読者の判断力を麻痺させ、気が付いたら終わっていた、という展開が最ものぞましい。そういう文章を書けば、読者の頭の中には何も残らないから、批判や苦情、反論や罵詈雑言が届くこともない。 この「回想方式」で最も有効な書き出しは、「それは何年何月何日の何時何分何秒のことだった」とはっきりと書くことである。これによって、読者は「そんなにはっきりと時間まで覚えておくほど強烈な出来事なのか」と衝撃を受ける。衝撃を受けない読者は、無視してよい。もちろん、読者が衝撃を受けている隙を狙って、話しを先に進めてしまうのは、言うまでもないことだ。 なお、この日付と時刻が真実である必要はない。どうせそんなもの、ちゃんと読んでいる読者はいないのだし、仮に読んでいたとしても、先に進めば忘れてしまう。そんないいかげんな読者のために、正しい日付と時刻を教えてやる必要などない。 ときには「その日のその時間にそんなことは起きなかった」などと、言わずもがなのことを言ってくる読者がいるかもしれない。そういう場合は、無視するか黙殺するか聞かなかったことにするのが、立派な大人の対応というものである。 「検討方式」という書き出しもある。「いつも思っているのだが」で始めるのである。 もちろん冒頭に「いつも思っているのだが」と書いてから、おもむろに腕組みをし「さて、何を思っていることにしようか」とじっくり考えればよい。何も、本当に普段から思っていることを書く必要などない。読者の興味は、作者がいつ思っているのか、ではなく、何を思っているのか、なのだから。 そういう意味では「時々考えるのだが」でも「ふと思ったのだが」でも構わない。いずれにしても「俺は思ったんだ」ということを、読者にわからせればそれで良いのである。 ひねくれた読者は「思わなかったことは書けないんだから、この書き出しは無駄じゃん」と思うかもしれない。そういう小賢しい屁理屈をこねる読者には、「神が宿る」とか「筆がすべる」とか「エンジェルさんが降りてくる」とか「見えない小人さんが書いてくれる」という神秘は理解できないのである。そういう神をも恐れぬ読者は、無視して良い。 この検討方式の場合、思ったり考えたりしている内容は、あまり高尚なものでない方が良い。間違っても「いつも思っているのだが、人は死んだらどうなるのだろう」とか「宇宙の果てはどうなっているのだろう」などと書いてはいけない。そんなことを書くと、「こいつは普段から、仕事もせずにそんなことを考えているのか」と思われてしまう。 たとえ実際には毎日難解な謎に悩んでいたとしても、そんなことを書くべきではない。そもそも、難解なテーマで書いたところで、読者には理解などできないのである。できれば「いつも思っているのだが、どうして鼻の穴はふたつあるのだろう」ぐらいにレベルを落としてあげないと、ほとんどの読者はついてこられないだろう。 相手のレベルに合わせてあげる、というのも、立派な大人の対応である。 そのほかには「伝聞方式」というのもある。「人から聞いた話しだが」と書き始めるのである。 例によって、冒頭に「人から聞いた話しだが」と書いてから、「さて何を聞いたことにしようかな」と考えればよいということは言うまでもない。でなければ、こんな書き出しは必要ない。 この書き出しの重要なことは、先の展開は何でもありだ、ということである。人から聞いたことを書いているだけなのだから、書いている側には何の責任もない。もしそれが大嘘だったとしても、悪いのは言った奴であって、それを聞いて書いた作者のせいではない。したがってどんな嘘を書いても許されるのだ。「日本の政治家はみんな正直者らしい」と書いたところで、誰からも非難される恐れはない。ときには「そんなの大嘘だ」といってくる読者もいるかもしれないが、そういう読者は無視してあげるのが礼儀というものだ。 もちろん「人から聞いた話しだが」と書いたからといって、本当に人から聞いた話しを書く必要はない。本で読んだ話しでも、テレビで見た話しでも、自分で思いついた話しでも構わない。いくらなんでも「その話し誰から聞きました?」などと聞いてくる読者はいない。仮にいたとしても、そんなことを聞いてくるような人は、正常な判断のできる精神状態だとは思えないので、そっとしておいてあげるのが優しさというものだろう。 この他にも、重要な書き出しの方法はたくさんある。参考までにそのうちのいくつかを列挙しておく。 「そういえば」 「ご存知の方もいらっしゃるだろうが」 「お忘れの方もいるかもしれないが」 どの書き出しの場合も、とりあえずそこまで書いてから内容を考えれば問題ない。どうせ読者には書いている時の途中経過などわからないのだから。 その他の書き出しとして、いきなり核心をつく、というのもある。たとえば「IT革命なのだそうだ」とやるのである。あるいは「若者の日本語が乱れている」と書く。 この書き出しの場合、何が便利かというと、とりあえずなにかネタを前面に押し出してしまうことで、そのテーマで一本でっちあげられる、ということである。 IT革命を冒頭に掲げた場合、あとはIT革命で押し通せばよい。もちろん、展開だの結末だのはあとからゆっくり考えればよい。そんなものが最初から決まっていたら、書いていておもしろくないではないか。 しかも、冒頭でIT革命を出したからといって、全編IT革命でまとめる必要もないのだ。同じネタだけで押し通されると退屈する、という読者がいないとも限らない。冒頭でIT革命をあげておいて、しばらくIT革命について書いて、途中からからまったく別の話題に持ち込んでしまってもよい。この場合、冒頭のIT革命は、落語でいうところの「枕」になるわけだ。柳家小三治のように枕がむちゃくちゃおもしろくて、それだけを集めた本が出てしまう場合もあるのだから、枕といえども馬鹿にしてはいけない。 ただし、気をつけなければならないのは「若者の日本語が乱れている」と書いた直後に、「それはさておきIT革命である」などとやることである。これをやると、読者としては「若者の日本語を無視してIT革命と来たからには、次にはまた別の何かをすぐに出すに違いない」と思わざるを得ない。読者に「その次は何が出てくるのだろう」といらぬ興味を与えることになってしまうわけだ。読者がそう思っているのに、そのままIT革命の話題を続けたりすると「つまんねぇ奴」ということがばれてしまって、読者が離れていく。やる場合には徹底的にやらなければならない。今話題になっていることを羅列するだけで終始する、ぐらいのことをしなければならない。もちろん、同じことが二度三度出てきてもかまわない。そんなものを最後まで読む奴は、どうせいやしないだろうから。 |