|
|
[ 映画の感想文のようなモノ ] へ |
[ 小説のようなモノの書き方 ] |
[ 小説の感想文のようなモノ ] へ |
[ エッセイのようなモノ ] へ |
[ メモの達人への遥かなる道のり ] へ |
[ 小説のようなモノ ] へ |
文章を小説っぽくする |
|
|
|
2000.02.06
ド素人が小説(のようなモノ)を書く場合、一人称形式がよい、と書きました。それはたしかにそうなんです。すくなくとも、視点のずれという観点に立った場合には。 ところが、視点のずれを考慮しない場合、あるいは、それがクリアできている場合でも、一人称小説の場合には、困ったことが起きてくる可能性があります。 まず、語り手が見ていないこと、聞いていないこと、感じていないことは書けない、という点。これで苦労してしまう人が多いようです。 その作品の構成によっては、語り手が見ていないことや聞いていないことまで、どこかで書かなければならないことも出てきます。そういう場合に、いきなりその行あるいはその段落だけ三人称にしてしまうと、とんでもないことになります。一般的には、「この作者は小説の書き方をわかってない」などと決め付けられてしまうようです。 そこで、一人称形式の作品で、主人公が見ても聞いてもいないことを、作品中で記述しなければならなくなった場合の、逃げ道を考えてみましょう。 まず第一に、誰か他の登場人物に見聞きさせて、それを主人公に伝えさせる、という方法。簡単なやり方としては、こんな感じになります。 「そういえば、おまえがいない間に奴が来て、こんなことを言ってたぞ」 と、誰かに喋らせる。 ただし、この場合には、語り手はその場で喋っている登場人物の言葉を信じるしかなくなるわけです。つまり、読んでいる読者も、作品の語り手と同じ立場に立っているわけですから、喋っている登場人物が、本当のことをいっているのか、嘘をついているのかは、主人公の主観を通してしか、理解することはできなくなります。 もちろん、それを逆手にとって、そのとき喋っていた人物が嘘をついていた、ということがあとでわかってもいいわけですが。 そういう意味では、このやり方は、ある種本格推理小説を書く場合には向いているのかもしれません。 本格推理小説は、読者が探偵と同じ立場に立って事件を推理できるようにする、というのが一般的な考え方ですから、探偵役の人物が見聞きしたことが、その人物と同じように読者の目に入ってくるようにするには、もってこいの方法なのかもしれません。 ただ、この方法をあまり多用すると、やたらと会話ばかりの作品になってしまう可能性もあります。 これが長編小説の場合、大きなくくり(たとえば章毎)で、一人称と三人称を使い分ける、なんてぇやり方もありますが、短い作品の場合には、それはおすすめできません。 そういう場合にはどうしたらよいか、ということですが。 単純にいうと、どうしてもその必要がない限り、語り手の見聞きしていないことは書かないようにするしかない、ということになってしまいます。 逆にいうと、一人称形式の作品であるにもかかわらず、どうしても主人公が見たり聞いたりしていないことを書かなければならなくなったとしたら、それは一人称形式で書いていることが間違いなんだ、ということになってしまうのです。つまりその作品は、三人称形式で書くべき作品だったのだ、ということです。 だからといって、せっかく途中まで書いたものを、最初から書き直すなんてことは、やりたくありません。そういう場合には、ワープロの威力を発揮しましょう。とりあえず、そこまでの文章は保存して、できれば印刷します。そして主人公が「俺」とか「わたし」といっているところを、全部「彼」とか「太郎」とかに変えてあげればいいんです。 もちろん、場合によっては文章を一部修正する必要も出てくるでしょう。それでも、最初から全部書き直すよりは楽なはずです。しかもありがたいことに、もともと一人称で書いた作品ですから、視点はすべて主人公のものになっているはずですから、視点のずれがほとんどないという利点もあります。もしそれで視点のずれが起きているようなら、一人称の時点でおかしかった、ということになるはずです。 以前一度だけ、それを意識して、最初に一人称で文章を書いて、それをそのまま三人称に変えてみる、ということをしたことがあります。 結構大変でした(笑) あんまりおすすめできるやり方ではありません。そういう意味で、その作品を一人称形式で書くか、三人称形式で書くかという問題は、できれば書き始める前に、きちんと検討しておくことをおすすめします。 一人称形式の文章の場合、他にも落とし穴があります。じつはこれ、掲示板の方で質問されて気がついたんですが。そういわれて、下手な一人称形式の作品を読んでみると、ときどきそういうのがあるようなんですが。 どういうことかというと。 主人公が、ナルシストになってしまう、ということです。 もちろんこれは、文字どおりの意味ではありません。実際はそうではないのに、まるで主人公がナルシストであるかのような文章になってしまうことがある、という意味です。 たとえば、主人公自身の外見を説明する場合、三人称形式の作品ならば、何の問題もありません。主人公が登場したところで、あるいはその少しあとで、主人公の外見を描写してあげればいいのです。ところが一人称小説で主人公の外見を説明する、ということは、つまり自分で自分の外見を説明しなければならないわけで、普通人間というものは、めったにそういうことはしないものです。少なくとも鏡を見たときとか、そういった外的要因がなければ、自分の髪型がどうとか、服装がどうとか、体型がどうとかいうことは、意識の中にはありません。ですから、主人公自身の見た目を描写するためには、主人公が自分の外見を意識しているシーンを盛り込んであげなければならなくなるのです。 このあたり、実は少し面倒な場合もあります。ストーリーにまったく関係ないのに、主人公が自分の外見を意識してしまうと、先にも書いたように、ナルシストになってしまいます。そうでなくても、うまく入れないと自意識過剰の気があるような感じになってしまう場合もあるわけです。 これを避ける方法のひとつとして、特殊な外見の場合を除いて、主人公の外見は無視してしまう、というのも手のひとつです。 つまり、よっぽどおかしな格好をしているとか、むちゃくちゃ太っているとか、身長が3メートル以上あるとか、そういった、外見上どうしても読者に知っておいてもらいたいようなこと以外は、わざわざ書く必要はない、ということです。そりゃもちろん、きちんと描写してあるにこしたことはありません。でも、下手に書いて、全体の流れがおかしくなってしまったり、主人公が自意識過剰になってしまうよりは、いっそ書かない方がましの場合もある、ということです。 たとえば、全体の流れから、主人公が当たり前のサラリーマンだということがわかっていれば、そして現在仕事中だということがわかるように書いてあれば、主人公はほぼ間違いなくスーツにネクタイです。仮にそうでなかったとしたら、それなりに理由があるはずですから、その理由と一緒に、服装を描写してあげればいいはずです。サラリーマンが仕事中にスーツを着てネクタイを締めている場合、それをいちいち描写するのは、おそらく無駄でしょう。 ただ、なんらかのもっともらしい理由があって、主人公の外見を説明する場合でも、気をつけなければならないことがあります。 ド素人の場合に陥りがちなミスとして、主人公の外見を描写している瞬間には、主人公の視点ではなく、書き手の視点に立ってしまうことがある、ということです。 たとえば、主人公が趣味の悪いネクタイをしていたとしても、主人公がそれを意識しているならば別ですが、通常はネクタイを締めている本人は「趣味が悪い」とは思っていないはずです。それを、あたかも第三者が見ているように、「俺はいつも趣味の悪いネクタイを締めて」などと書かないように気をつけてください。一人称で書く場合には、あくまでも語り手の視点に立って物事を考えるようにしてください。 |
Copyright(c) 1997-2007 Macride |
|