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[ 小説のようなモノの書き方 ]
内容を小説っぽくする
起承転結

2000.04.22

 実はこの「起承転結」に関しては、うちでは取り上げるのはやめようか、と思ってたんですが。なんでかというと、これって、どの「小説の書き方」やら「文章の書き方」を見ても、しっかりやってるでしょ? いまさらうちみたいな半端なところで取り上げる必要はないだろう、と思ってたんです。ところが、いくつもの「小説の書き方」系の本やらインターネット上のサイトやらを見ていて、意外と勘違いをしている人が多いということに気がつきまして。だったら、ちょいととりあげてみようかな、と。  
 なにが問題かは置いておいて、順番にはなしを進めましょう。なんせ話題が「起承転結」ですから。  
 まずは「起」です。  
 これはもう間違いようもなく、物語の発端です。基本的には、これがないとおはなしがはじまりません。逆にいうと、物語が始まったら、とりあえずそこが「起」である、といってしまうこともできるかもしれません。  
 まれに、「起」を「プロローグ」のようなものと思っている方がいらっしゃるようですが、それはまた別ものです。  
 たとえば推理小説の場合、プロローグでまず過去の事件を描写したとします。その場合、プロローグが終わったところで、本筋が始まるわけですが、本筋は本筋でそこから物語りが始まるわけですから、そこには当然「起」に相当する部分があるわけです。プロローグだけ見た場合でも、そこにもやはり「起」が存在するわけですね。ただ、プロローグだけ取り出した場合には、見た目上「起」だけしかないように見えたり「起承」あたりや「起承転」あたりで終わっている場合もあるかもしれません。それにしたって、何らかのおはなしを始める場合には、どうしても「起」は存在してしまうことになります。  
 小説の上では、通常「起」で「事件が起きる」ということになっています。もちろんこの場合の「事件」というのは、なにも殺人事件だったり、大きな事件である必要はありません。主人公が寝坊した、というようなことでも構いませんし、場合によっては、単に主人公が朝起きた、というようなことでもいいわけです。ただし、一般的には、オープニングはできるだけ印象的にした方が良い、とされていますから、ただいつもと同じように目覚めるだけではなく、何かちょっとしたことがあった方がいいかもしれません。  
 次に「承」です。  
 これも、通常は間違いようがありません。「起」で始まった物語をうけて、はなしを進める部分です。  
 はなしを進める部分ということは、なんとなく小説全体の中で占める割合が、もっとも多いのではないか、という気がします。長編小説の場合は、「起」もかなり長くなったりしますし、後述する「転」が長い場合もありますから、必ずしも「承」ばかりが長いというわけではありませんが、小説の場合、メインといえばメインかもしれません。  
 長い作品の場合、この「承」の中がまた「起承転結」に分かれていたり、「起」だけでも「起承転結」になっていたりします。逆に短い作品の場合には、この「承」や「転」がまったくなかったりする場合もあるようです。まったくない、といってしまうと語弊があるかもしれませんが。ないように見える作品もあります。  
 なんにしても、「起」で始まった物語を先に進める部分が「承」です。  
 さて、次は「転」ですが、これが問題。  
 ほとんどの「起承転結」の説明では、「転」を「物語が一転する」というような説明をしています。場合によっては、どんでん返しのようなものだとか、「意外な展開」といっていることもあります。これが実は大間違い。  
 本来の「転」は、「承」に続いてなお一層物語を進める、という意味になるのです。つまり「転」というのは、必ずしもどんでん返しや意外な展開に限ったものではないということです。「承」までで進めて来たおはなしを、より深く掘り下げるとか、違う角度から見てみるとか、そういった意味あいだと思ってください。  
 話しが先に進んでしまいますが、もともと「起承転結」の「結」というのは、結論やら結果やら結末の「結」なわけで、つまりここが一番いいたい部分、ということになるわけです。で、その直前にある「転」というのは「結」をよりわかりやすくするとか、より印象的にするとか、強調するとかいった目的のためにあるものなのです。  
 例をあげてみましょう。  
 
起 朝起きたら雨が降っていたので、  
承 中止だろうと思って学校に行ったのに、  
転 遠足は中止じゃなかったので、  
結 僕はランドセルで遠足に行きました。  
 
 小学生の作文のような例文ですが、一応「起承転結」になっています。ちょっと見ると「転」で意外な方向に進んでいるように見えるかもしれませんが、実際には「雨が降っていたけれど、遠足は中止ではなかった」という事実の展開に過ぎません。「僕」にとっては意外な事実だったかもしれませんが、客観的に見た場合、それほど意外性のある事柄ではありません。特に「承」の最後が「のに」となっていますから、読者は次に来る内容が、それまでの事実を否定するものだ、という予想をすることができます。そういう意味では、「転」を「意外な展開」と考えた場合、この例は「起承転結」のあまり良い例とはいえな  
くなってしまいます。  
 でもこの例文の場合、一番いいたいことは、「ランドセルで遠足に行った」ということです。それはなんでかというと「雨が降ったのに、遠足が中止ではなかったから」ですね。つまり、大事なのは「遠足が中止になっていなかった」ということ。そのせいで、ランドセルしょって遠足に行く羽目になったわけですから。つまりこの場合の「転」は削るわけには行かない、大事な部分なんですね。「転」を削ってしまうと、話しが通じなくなります。この「転」は、ランドセルで遠足に行ったという結論を、よりわかりやすく説明するためにあるのと同時に、物語の最も重要な部分を担っているわけです。この場合の「転」は、どんでん返しだの意外な展開だのではなく、物語の核心に近いわけです。  
 あるいは、こんな例文はいかがでしょう。  
 
起 あなたが好きよ。  
承 とっても好きよ。  
転 世界中の人があなたを嫌っても、  
結 わたしはあなたを愛し続けるわ。  
 
 わかりやすいですね(笑)  
 こんなこと、一度はいってもらいたいものですが、よく考えてみると「俺って世界中の人に嫌われるような奴なのか」という疑問がわいて来ます(笑)  
 それはそれとして。  
 「起」でおはなしが始まっています。あなたが好きなんです。「承」では、文字どおりそれを受けて、より話しを進めています。とっても好きなんです。ところが「転」でいきなり意味不明なことを言い出すわけです。それも、ちょっと見ると、いままで言っていたことと、まったく逆に取れるようなことを。そういう意味では「意外な展開」に相当しますね。  
 でも「結」でその意味がわかります。そのぐらいあなたのことが好きなのよ、ということです。歯が浮いてきます(笑) わたしには言えません。  
 この例文で言いたいことは、平たくいうと「あなたのことがすごく好きなのよ」です。じゃあどのぐらい、というのを順に説明しているわけです。しかも、その説明は順を追うに従って強調されてきます。最初はただ単に「好きよ」だったものが、「とっても好きよ」に強調され、「転」に書いてあることによって、より一層その内容が強調されて「結」に至るわけです。  
 この例文は、頭から読んでいくと、「転」で突然違うことを言い出したようにも見えるのですが、後ろから読んでいくと、この「転」が、明らかに結論をより強調するためにあるのだ、ということがよくわかります。  
 この場合の「転」は、削り取っても意味は通じます。そういう意味では、先の遠足の例文と違って、核心に近い部分ではありません。ただ、たしかにはなしは通じますが、「結」で提示している内容のインパクトは、削り取る前よりも数段落ちることは確かでしょう。  
 このように「転」というのは、ちょっと見ただけでは「意外な展開」のようにも見えるかもしれませんが、実際には「主題をそれまでとは別の側面から見ることによって、結論をより引き立たせるためのもの」なのです。  
 一般的には、この「転」の部分が物語のクライマックスになります。例えば、クライマックスで主人公と敵役が対決する場合、読者にとってそれは意外な展開でもなんでもありませんね。実際、読者にとっては、期待していた展開のはずです。その場合、読者にとって最も興味のある部分は「主人公は勝つのか」という点です。勝ったか負けたかを説明する部分が「結」だとすると、クライマックスの「転」は、その勝ち方あるいは負け方をより強調するシーンになるわけです。たとえ読者の興味が主人公が勝ったか負けたかにあったとしても、何の説明もなく、ただ「勝ちました」では読者は納得しません。読者が求めているのは、確かに結論や結果なのですが、ただそれだけを提示するのは、小説のやることではありません。読者は小説にそんなものは求めていないのですから。逆に、たとえ最初から主人公が勝つことがわかっているような内容のおはなしでも、読者がついてくるのは、「いかにして勝つか」という点を知りたいからでしょう。それを強調するために「転」があるのです。  
 おわかりいただけましたか?  
 とりあえず、「起承転結」の「転」は、意外な展開やどんでん返しのことなどではなく、「結」で出てくる結末をより強調するためにあるのだ、ということだけ覚えておいてください。そして、そういうつもりで物語を進めるように心がけてください。  
 この考え方は、論文などにも通用します。それまでの内容を否定するような展開を「転」でしておいて、その否定的な内容をふたたびきっちり否定することで、否定的な内容もきちんと検討したぞ、ということを表明する。これによって、主題に対する掘り下げがより深くなるわけです。  
 さてさて最後に「結」が残ってます。  
 まあ、ここまでの説明でおわかりでしょうし、これもそれほど取り違えようがありません。物語の締めくくりです。  
 途中で、「結」は結論や結果やら結末の「結」だ、と書きましたが、小説の場合にはほとんどの場合「結末の結」になるでしょう。「起」で物語りが始まって、「承」と「転」でそれを受け継ぎ、より詳しく説明し、その結果こんなんなりました、というのが「結」です。  
 ただし、ある種の小説にはこの「結」がない場合もあります。リドルストーリーと呼ばれる、読者に結論を委ねる作品の場合です。有名なものに「女か虎か」という作品がありますし「わたしが彼を殺した」なんぞもそのパターンでしょう。  
 リドルストーリーほどではないにせよ、この「結」がやたらと短い作品もあります。場合によって、最後の一行だけが「結」になっている場合もあります。そういう意味では、リドルストーリーには「結」がない、と言いましたが、実際には最後に読者に向かって「さあどっち」と問い掛けているとしたら、その一行こそが「結」になるのかもしれません。  
 でもまあ通常は、多少のページを割いています。かなり長い場合もありますし。  
 どちらにしても、これで物語が終わるわけですから、読者はこれまで親しんできた小説と、別れなければならないわけです。ここまで楽しんで来たかもしれませんし、苦痛を味わっていたかもしれません。でも「結」のでき如何によって、それまでの印象をまったく変えてしまうこともできるのです。そういう意味では、「結」こそがどんでん返しである場合もあります。  
 まあ、なにもどんでん返しや意外な結末を、必ず用意しなければいけないってことではありませんから、読者以上に作者自身が楽しんで物語を終わらせてください。  


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