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[ 映画の感想文のようなモノ ]
映画「ドクター・ドリトル」

1999.01.06

 正月ってこともあり、おめでたく笑える映画でも見ようということで、単純なコメディを選択してみました。  
 まあ、結論から言ってしまうと、場内は結構爆笑の渦のようでしたが、わたしはそれほど笑えませんでした。もちろん、まったく笑えないわけではなく、コメディのはずなのに、思わず声を出して大笑いしてしまうようなシーンが少なかった、というだけです。  
 原作の童話は持ってるんですが、例によってどこへいってしまったのか、探す気力もありません。もっともこの映画は、タイトルこそ「ドクター・ドリトル」ですが、内容はヒュー・ロフティングの原作とはまったく関係がありませんから、無理して探す必要もないんですが。  
 設定として同じなのは、「動物と会話ができる」という部分だけです。なぜ動物と会話ができるのか、という理由からして全然違います。小説の方は、人間の言葉をしゃべれるオウム(ったって麻原ではない)に動物の言葉を教わるのですが、映画の方ではなんと、子供のときから自然にできた。ということで、飼っている犬と会話を交わしているのを心配した父親が、犬をどこかにやってしまいます。それ以来ドリトル君は動物としゃべるのをやめてしまった、というか、そんなことすらすっかり忘れて、立派な医者になりました、というところから物語が始まります。  
 原作の方のドリトル先生は、もともと獣医だったと記憶していますが(違ったらゴメン)、映画のドリトル先生は人間の医者です。ただ、やって来る患者は、人間には見えない(笑) ドリトル先生が何科の医者なのか、ちゃんとした説明はありません。まあ、小児科とか耳鼻科でないのは確かでしょう。  
 本来「ドリトル」という名前は「ドゥ・リトル」つまり、少ししか働かないという意味で、ドリトル先生は怠け者のはずなんですが、映画のドリトル先生は看板に偽りありで、結構勤勉に働く人です。若いころに友人と始めた診療所が大きくなって、大病院との提携をしようとしています。そのためには、家族も少しないがしろ。  
 単純にいえば、仕事人間だった主人公が、ある事件をきっかけに家族を大事にすることとか、仕事やお金以外の大切なものに気づくという、アメリカのコメディ映画には少なくないパターンです。ただ、ドリトル先生がもともとそれほど仕事オンリーの性格でもないので、動物の言葉が理解できるようになる前と後との性格的な違いは、さほど大きくありません。このあたりは、もっとパターン化してしまって、最初のうちは人を人とも思わない、動物だったらなおのこと、平気で切り刻むわ、薬漬けにするわ、という性格にしておいた方が、メリハリがあったかもしれません。  
 動物の言葉が理解できるようになると、しゃべる動物たちがたっぷり笑わせてくれますが、それもいまひとつシャープさに欠ける部分があります。もちろん、動物とドリトル先生の会話は充分おかしいですし、動物の目から見た人間の行動に対する風刺的な部分も、かなり楽しめます。おもしろいと思えないのは、わたしが悪いんでしょう、きっと。他のお客さんは結構笑ってましたから。  
 なにしろ大きな疑問が頭の中にこびりついていて、そっちが気になって笑うどころじゃなかったんですよ。  
 その疑問というのは、「ドリトル先生が動物としゃべっている時に、先生はどんな言葉を発しているのか」ということ。もちろん映画としては、見ている観客にわかるように動物も先生も人間の言葉をしゃべってますが、それを、映画に出てくる他の登場人物が見た場合、当然動物は吠えたり唸ったりしてるだけのはずなんですよ。で、その動物としゃべっているドリトル先生も吠えたり唸ったりしてるのか、それとも普通に人間の言葉をしゃべってるのか。それが気になって気になって。  
 一度か二度、そういうシーンがあったような気がしないでもないのですが、はっきりとした記憶として残っていません。感じとしては、ドリトル先生は動物としゃべるときにも普通に人間の言葉を使っている、という印象を受けました。  
 そうなると、別の疑問が湧いてきます。  
 もし動物に向かって人間が吠えたり唸ったりしているのならば、そりゃもう端から見たらかなり変な奴ってことになるのですが、普通に人間の言葉で話しかけているのならば、それほど変な状態じゃぁないんじゃないか、と思うのです。  
 ペットに話しかける人は大勢います。それも、まるで会話を交わしているような話しかけ方をする人は山ほどいます。もしドリトル先生も動物に対して人間の言葉で話しかけているのならば、それほど異常な状態ではないはずなのです。まあ、ごみ箱の中にいるどぶねずみに話しかけるってのは、ちょっと変ですが。  
 この疑問が頭を占領していたために、なんだか楽しめなくなってしまったのです。これは絶対わたしが悪い。コメディは純粋に楽しむべきなんですから。  
 もうひとつ、これは疑問ではなく不満なんですが。  
 ドリトル先生の父親の性格設定が、非常に中途半端です。ドリトル君が子供のときには、犬としゃべっているのを見て、なんと悪魔払い師を呼んで治療を施したりしました。なのに、彼が大人になってふたたび動物と話し始め、頭がおかしくなったんじゃないか、と奥さんが心配しているときには、「奴は本当に動物としゃべれるんだ。子供のころにはしゃべっていたのに、わたしが無理矢理やめさせてしまった」ってなことをいって、なんだかすごく理解のあるようなセリフを吐きます。このあたり、なんだか納得がいきません。子供のときにしていたことを大人になってからまたやり始めた場合、しかもそれが親の目からは病気のたぐいに見えていた行動だった場合、普通の親なら「再発した」と思うのではないでしょうか。しかも、父親はやめさせた張本人なのですから、「奴が子供のときには、こうやってやめさせた」というアドバイスをするのが普通なんじゃないでしょうか?  
 これってなにも父親ひとりに両方の役をやらせなくても、父親は理解があったのに母親がやめさせた、といった設定にしておけば、それで済むことだと思うのですが、なんでそうしなかったんだろう。そういえば、ドリトル先生の母親って出てこなかったような気がする。何か説明あったかなぁ?  
 まあ、お気楽なコメディですから、最後にはハッピーエンドになるのですが、ひとつ予想が外れたことがありました。  
 ドリトル先生には娘が二人いて、下の娘の方が動物を可愛がる、というか動物に非常に興味を持っているような設定になっているので(これも実は少し中途半端な感じなので、もっと徹底的に動物好きした方がおもしろかったと思うのですが)、最後には娘も動物としゃべれるようになるのか、と思っていましたが、あいにくそれはありませんでした。  
 こうして見ると、全体的にキャラクター設定が中途半端な映画のような気がします。ドリトル先生もそうですし、奥さんや娘、先生の父親、友人たちも、なんだかみんな中途半端です。動物たちは比較的極端な性格をしていますが、それも人間たちに比べて、というレベルで、少しありきたりの感じがしないでもありません。どうせコメディなんですから、各登場人物の性格を極端なほど誇張してしまった方が、もっとばかばかしい笑いが取れたんじゃぁないでしょうか。  
 
 全然関係ないんだけど、「スター・ウォーズ/エピソード1」の予告をやっていて、ちょっと楽しみです。一作目のときには、劇場で何度も見た記憶があります。まだビデオなんてなかったしね。その後、世間で盛り上がるのと反比例してわたしの熱は冷めていって、実は今はそれほどでもないんですが、それでもやっぱり楽しみです。それと、劇場に貼ってあったポスターが渋くていい。ちょっと大友克洋風のデザインで、スター・ウォーズらしさがあるようでないようでしっかりある!  


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