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1998.03.01
イアン・フレミングが007シリーズの最初の一作目、「カジノ・ロワイヤル」を発表したのが1953年だから、それからすでに何年過ぎているかは、小学生レベルの算数の能力があれば暗算で計算できるだろう。あいにくわたしにはその能力がないので、各自計算してほしい。そのイアン・フレミングが死んだのは1964年で、今年ですでに、何年もたっている。このへんの計算も各自でしてもらいたい。
で、この「トゥモロー・ネバー・ダイ」は007の新作なわけだけれど、もちろんイアン・フレミングが書いたわけではない。
あの有名なジェイムズ・ボンドを主人公にしたシリーズは、映画だけでなく小説の方も非常に人気が高く、今でも別の作家が新作を書き続けているという。
知らない人のために、念を押しておくが、007シリーズはもともと小説が先にあった。その小説がはじめて映画化されたのは、1962年の「007は殺しの番号」(1972年にリバイバルされたときに、小説の方のタイトル、「ドクター・ノオ」にあわせて以来、現在はそちらの名前が使用されている。もちろん、原題はどちらも「Dr.NO」)で、ショーン・コネリーがボンドを演じて、人気映画シリーズの幕開けとなったのはご承知の通り。
映画のシリーズは、ずっとイアン・フレミングの原作をもとに作られてきていたが、たしか、ロジャー・ムーアがボンド役をやった最後の作品「美しき獲物たち」で原作を使いはたしてしまったと記憶している。このあたり記憶がいいかげんなので、正しい情報をお持ちの方はご一報いただきたい。というようなことを随所に書いているが、連絡が来たことは一度もない。
さて、映画のシリーズでは、原作を使い果たすよりも前から、すでに原作を離れたところで話しが進んでいた。なにしろ、後半は短編のタイトルだけを使ってオリジナルの話しを作っていたのだから、脚本家たちも大変だったことだろう。
で、この小説「トゥモロー・ネバー・ダイ」は、映画シリーズの方の新作を小説に直したノベライズなので、小説の新作というには、ちょいと無理があるかもしれない。それでも、脚本をもとに小説を書いた作家というのが、本国(ちなみに、007の本国はアメリカではなくイギリスですので、お間違いのないように。ただ、作家のプロフィールを見る限り、活動場所はイギリスではなくアメリカのようです)で現在007シリーズを書いている作家ということらしいので、新作小説としてもよくできている。それにしても、小説版の007シリーズの新作が次々と発表されているにもかかわらず、何で映画の原作としてそれを使わないんだろうか。小説の方は、あんまりできがよくないんだろうか? まあ、映画と小説は、多少方向性が違うから、映画には映画用の話しがあった方が作りやすいんだろうけど。
お話しのあらすじなんてぇものは、説明する必要はないでしょう。
ただ、この007シリーズに限らず、この手のお話しの特徴として、「大事件勃発を防ぐのは、必ずリミットギリギリで」というのがあります。テロリストによる核爆弾の爆発でも、第三次世界大戦勃発の危機でも、それを回避するのは必ず、あと数秒、というタイミングになります。まあ、二日も三日も前に危機が去ってしまったりしたら、お話しとしては面白くないのは当たり前ですが、気をつけなければいけないのが、ギリギリになってしまった理由が、主人公が馬鹿だったから、とか、作者の都合で、とかいうものであってはいけない、ということなんです。その点、この007シリーズっていうのは非常にうまくできていて、主人公が全知全能を駆使して、やっとギリギリで食い止めることができた、という感じをうまく出しています。ジェームズ・ボンドがいなかったら、世界は何度滅びていたことか。まあ、彼には勝利の女神もコロッといっている、という話しもありますが。
で、このノベライズを読んでいて気がついたことは、おそらく映画の脚本にかなり忠実に書いているんじゃないかな、ということ。なにしろ、映画の予告を見ていて、「あ、ここはあのシーンだな」とわかるものばかり。小説を読んでいて、映画を見ているような気になれるのですから、ありがたいといえばありがたい。
映画を見る前にノベライズを読んでしまうことの利点として、登場人物の相関関係が理解しやすい、というのと、映画を見るときに、ストーリーを追わなくてすむようになる、というのがあります。もちろん、ストーリー主体のお話しの場合は、ノベライズを読んでしまったら映画を見る価値がなくなってしまいますが、ものがSFだったりアクションだったりした場合は、基本的に映画の方に有利ですから、ノベライズでお話しの基本を理解してしまってから劇場に足を運び、あとはゆっくり、画面の特撮やアクションを堪能する、というのも、映画と小説の楽しみ方のひとつではあります。だいたい、007シリーズは、最後にはかならずボンドが世界を救って終わるんですから、「衝撃のラスト!」を気にする必要は全然ありませんからね。あ、「女王陛下の007」だけは、最後に衝撃があったな。って、これは映画の話し。小説ではどうなのか、残念ながら読んだことがないのでわかりません。
ということで、このノベライズは、基本的には映画を楽しむための予告編のつもりになれば、充分いけるんではないでしょうか?
映画も見る予定ですので、見たらまた感想のようなモノを書く予定です。
最後にひとつ付け加えておきますが、007というのは「ダブルオウセブン」と読むのが正しい。日本では、映画評論家なんぞも平気で「ぜろぜろせぶん」と言っていますが、これは大きな間違いです。英語版の映画を見ていても、ちゃんと「ダブルオウセブン」と言っていますし、吹き替え版の映画でも、きちんと「ダブルオウセブン」と呼んでいます。したがって、ここまで「007」を「ゼロゼロセブン」と読んでいた人は、「ダブルオウセブン」で最初からちゃんと読み直すように(笑)
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