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[ 小説の感想文のようなモノ ]
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小説「私が彼を殺した」
東野圭吾著(講談社ノベルス)
全国書店ネットワーク e-hon

1999.02.13

 推理小説は、一度読んでしまったら、もう同じものを読む気はしない、という意見があります。たしかに、最初から犯人がわかっている状態で読んだのでは、おもしろくもなんともない推理小説は、山のようにあります。  
 しかし、そうではない推理小説も、世の中にはちゃんと存在しているのです。刑事コロンボや古畑任三郎は、最初から犯人がわかっているけどおもしろいぞ、というのとは、また違います。  
 ここでいう「犯人」というのは、作品の中での「謎」という言葉に置き換えて考えてください。最初から犯人がわかっていても、アリバイトリックやら、密室トリックやら、読者に与えられる謎は、いくらでもあります。作品の中の「謎」はかならずしも「誰が犯人か」ということに限られません。  
 ここでいっているのは、一度読んだあと、犯人(謎)を知った上でもう一度読むと、最初に読んだとき以上に、おもしろくなる作品もある、ということです。本当におもしろい推理小説というのは、その「謎」が解けたあとで、もう一度読み返したときが、一番おもしろい、というのが、推理小説ファンの意見のようです。  
 つまり、いかにきちんとヒントが出されていて、なおかつ、それがいかにうまく隠されていたか、というのを、二度目以降に読んだときに、じっくりたしかめよう、というわけです。一度目には気にも止めなかった描写が、実は大きな意味を持っていたりして、おもしろい作品の場合には、つい「おお! ここでこんな描写があったのか」と声に出そうなときもあります。  
 そういう意味では、それを書く作者の苦労というのは、尋常ではないでしょう。あまりはっきりヒントを出してしまうと、読者はすぐに謎を見破ってしまって、結局つまらない作品という評価になってしまうし、あまりに曖昧な形で出すと、「あれは卑怯だ」と、読者から苦情が来るし。  
 ただ、それに挑戦して、読者から「あの作品はすごかった」と言われたときは、作者冥利につきることでしょう。  
 この「私が彼を殺した」も、そういった、作者から読者への挑戦的な作品です。  
 読者には、作中の探偵役と同じだけの情報が(場合によってはそれ以上の情報が)、与えられています。したがって、読者は最後には、作中の探偵役と同じ論理を使って、謎を解くことができるはずなのです。この手の推理小説は、昔から数多く書かれています。中には、途中に、  
 「ここまでで、すべての情報は提示された。読者は、論理に基づいて犯人をつきとめることができるはずである」  
 ってな「作者からの挑戦状」のようなものが挿入されている作品もあります。  
 通常、その手の作品でも、最後には誰が犯人なのか、きちんと説明されているのですが、この「私が彼を殺した」の場合、最後にちゃんとした答えが用意されているわけではありません。普通の推理小説のように「だから犯人はだれそれです」という記述はないのです。へたをすると、読み終わった後でも、結局誰が犯人だったのか、わからない読者も出てくるわけです。  
 この作者は、以前にも「どちらかが彼女を殺した」という同じようなパターンの作品を書いています。ただその時は、タイトルからもわかる通り、容疑者はふたりでした。そのうえ、犯人を特定する大きな手がかりが、ラスト近くに用意されていました。だから、読み終わったあとに、少し前に戻ってみれば、犯人がだれだか、読者にも比較的楽に理解できるようになっていました。  
 ところが今回は・・・・  
 わたしは、一応最後まで読んだのですが、いまだに犯人が誰なのかわかっていません。  
 事件の前後の記述を、何度読み返しても、最後に提示されたヒントにひっかかるものがわかりません。  
 誰か、答えを教えてください。  
 せめて、  
 「何ページの何行目の記述を見ろ」  
 でもかまいませんから。  
 気になって、仕事中におちおち昼寝もできやしない(笑)  
 げ、全然感想文になってないや。  


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