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小説「双頭の悪魔」 有栖川有栖著(創元推理文庫) |
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1999.05.16
いやぁ、分厚い本です(笑) 本文だけで六百八十ページを越えるし、文庫なのに千円以上の値段だし。上下二冊に分けてもよかったんじゃないかなぁ。あ、二冊にしたら、トータルの値段はもっと高くなっちゃうんだ。いいや、このままで(笑) 「月光ゲーム」「孤島パズル」に続く三作目で、三部作ではないそうです。 実は、前の二冊も読んでるんですが、ごめんなさい。内容を全然覚えていません。捜せばあるはずなんで、読み返してみようかと思います。 推理小説の場合、一度読んだ作品の内容を覚えていない、というのは、それほど悪いことじゃないんですね。って、そりゃもちろん、作者に対しては失礼ですが。読者の立場からいえば、同じ謎をもう一度謎として楽しめる、という特典が出てくるわけですから。で、内容を思い出してから、もしくは、覚えているうちに、もう一度読んでみる。二度も三度も楽しめるわけです。 もちろん、一度読んだだけで、ちゃんと内容を覚えてるにこしたことはないんですが。 推理小説の世界で、川があって橋があって、その向こう側に行くには、その橋以外に他に道がない、となったら、その橋がどんなに頑丈そうに見えても、必ず落ちます。そういう状況で橋を出しておいて、最後まで落とさなかったら、それは作家の手抜きです。 いや、まあ、そんなことはないんですが。 この作品でも、ちゃんと橋は崩壊します。この作品のすごいところは、橋が落ちてしまったために、橋の向こう側が孤立するのはあたりまえとして、橋のこちら側も、山奥の村だったがために、途中の道が通れなくなって、一時孤立した状態になる、ということ。 一般に、「嵐の山荘モノ」とか「雪の山荘モノ」「孤島モノ」などと呼ばれるパターンで、科学捜査が当たり前になった現代で、完全に論理だけで犯人を導き出すために、警察の介入を避けたい場合に使用する方法のひとつです。 本書では、それを二重に行ったわけです。まあ、橋のこちら側の事件は、すぐに警察が入ってきますが。 橋のこちらとあちらでそれぞれ事件が起きて、それがまったく別々の事件に見えて、本当に別々の事件だとしたら、それは推理小説としては失敗作でしょう。推理小説を読みなれている読者ならば、そう考えながら読むのはあたりまえですから、作者としては、それをいかに最後までうまく隠すか。それが腕の見せ所でしょう。 それが成功しているかどうかは、読んで判断していただくとして、読んでいて疑問に思ったことが少々。 マリアが、木更村から帰ってこようとしなかった理由が、いまひとつはっきりしないんですね。 一応もっともらしい理由は書いてありますが、なんとなく、納得できません。 あとはまあ。 わたしは、推理小説を読みながら、犯人を推理しようと思っていないので、犯人がわかったときにも、それほど驚愕はしないのですが。謎の解明の段階で驚愕すること、はしばしばあります。 たとえば、記憶している中で一番驚いたのは、栗本薫の「鬼面の研究」で。鬼を神としてあがめている村での、鬼っ子の扱いというか、呼び方に関する説明があったとき。 「なんで、そんなことに気がつかなかったんだ!」 と思った記憶があります。わたしにとって推理小説というのは、そういう驚きを与えてくれる作品だ、といってもいいかもしれません。残念ながら、本書にはそういう驚愕は与えてもらえませんでしたが。 |
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