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小説「救命士」
ジョー・コネリー著(ハヤカワ文庫)
全国書店ネットワーク e-hon

2000.02.06

 ものの本によれば、素人あるいは新人が小説を書く場合、自分がよく知っている世界を書くべきだ、ということになっています。つまり、書き手が学校の先生ならば学校のことを、医者ならば病院を舞台にして、落語家ならば落語家の世界を書いた方が、リアルであり、臨場感も出るというわけです。どんなに詳しく調べたつもりでも、学校の先生が病院を舞台にした作品を書いたり、医者が落語の世界を物語りにしたり、落語家が学校の裏側を描こうとしても、実際にそこで働いている人の描写には勝てない、と。  
 そういう意味で成功している作家の一人に、パトリシア・コーンウェルがいますが、この本の作者も、実際に救急救命士だった経験を生かして本書を書いたそうです。  
 なぜコーンウェルを引き合いに出したかということは、作品を読んでみればわかると思います。どちらも、比較的近い場所にいるのです。違いはただひとつ。検屍官は被害者が息を引き取ってから駆けつけるのに対して、救命士は息を引き取る前に駆けつける、ということ。  
 検屍官は、被害者の悲惨な状況に心を痛め、救命士は、一晩に起きる呼び出しの多さと、自分が助けることができなかった相手を忘れることができずに苦悩し続けています。  
 実際には、救命士が助けようとする相手は、必ずしも「被害者」ではありません。事故や怪我や病気、ありとあらゆることで呼び出されます。あるいは酔っ払いやら麻薬中毒やら。  
 この作品の場合、舞台がマンハッタンの通称「地獄の台所(ヘルズ・キッチン)」と呼ばれる場所であるためか、救命士が助けなければならない相手は、ろくでもないような人間が多かったりします。もちろん、そうでない人も多いのですが、読んでいるかぎり、主人公のまわりには、まともでない人間の方が多いようです。救急車を呼び出す側はもちろんのこと、呼び出される救命士の側も、どこかしらがキレているような感じです。  
 まあ実際に、毎日のように人の生だの死だのに立ち会っていれば、疲労もすごいものがあるのでしょう。医者や看護婦や救命士を救ってくれる人、というのも世の中には必要なんじゃないか、と思ってしまいます。  
 そういう意味で、この作品は、救命士という職業のものすごさをありありと見せつけてくれます。必死の活動によって助かった者もあり、努力の甲斐もなく死んでいくものもあり。死は免れたものの、はっきりいって死んでしまった方が本人も幸せだったんじゃないか、という者もあり、死んでくれた方が世間のためなんじゃないか、というような相手を助けたり。  
 全体を通して貫かれているテーマのひとつに、主人公は立ち直れるか、というものがあります。くじけかけては立ち直り、立ち直りかけてはまた絶望する。この繰り返しです。はっきりいってしまうと、この作品には、ストーリーらしいストーリーというものが、ないような感じなのです。いくつも起きる事件の積み重ね、といった感じがあります。それはそれで逆に、救命士の日常がよく表現されている、ということなのかもしれませんが。  
 気になったことがひとつ。これはおそらく、原書の文体なのだろうと思うのですが、随所に見られる体言止めと、「〜というわけ」という表現。特に「〜というわけ」という記述は、ぴったりくる部分もあるのですが、ちょっと違和感を覚えてしまう部分もあって、少し気になりました。  
 この作品、マーティン・スコセッシ監督、ニコラス・ケイジ主演で映画化されているそうです。スコセッシ監督といえば、あの「タクシー・ドライバー」が思い出されて、あの世界がふたたびスクリーンで展開されるのか、と思いながらこの作品を読むと、なお一層暗くなれること請け合いです。問題は、映画のラストに救いがあるかどうかという点。  


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