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[ 小説のようなモノ ]
間違い電話(第二稿)
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'99.10.10

 疲れた体を引きずって家に帰りつき、ドアを開けた瞬間に、家の中にこもっていた熱気が、わたしに襲いかかってきた。日中の熱気が深夜にまで残っているということは、家の中にはずっと誰もいなかったということを物語っている。クーラーを使う者もいなければ、空気の入れ替えをする者もいない家。それは、体に感じた粘りつくような暑さ以上に、精神的な脱力感を、わたしに与えてくれた。  
 ささいなことから、妻が三才になる息子を連れて実家に帰ってから、今日で三日になる。喧嘩の原因がなんだったのか、今となってはよく覚えていない。わたしが悪かったのか、妻が悪かったのか、それすらもはっきりしない。もともとわたしは、毎日の生活の中で妻とどんなはなしをしたかすら、よく覚えていないことが多かった。それで妻が機嫌を悪くすることはしょっちゅうだったが、出て行ったのははじめてだ。  
 妻に言わせれば、はなしを聞かないわたしが悪い、ということになるのだろう。しかし、わたしは一日中働いて、くたくたになって帰って来るのだ。そこへ、わけのわからないことをまくしたてられても、いちいち覚えていられるはずがない。  
 それでも新婚のころには、無理をしてちゃんとはなしを聞いていたものだ。ところがそのうち、妻が同じようなはなしばかり繰り返していることに気がついた。しかも、隣の奥さんがどうしたの、近所のスーパーが特売だのと、わたしが聞かなくてもいいような内容のはなしを繰り返しているのだ。やがてわたしは、妻のはなしをろくに聞きもしないで、生返事だけするようになった。それでも会話は成り立っていた。  
 だから、三日前の朝に、妻がいきなり怒りだしたときには、わたしには彼女が何を怒っているのかわからなかった。わたしがちゃんとはなしを聞いていないことに腹を立てているのか、それとも別のことなのか、それすらもよくわからなかった。出勤時間が迫っていたわたしが、妻をなだめるのもそこそこに仕事に出て、帰って来たときには日付は翌日になっていた。だから、家の中が真っ暗だったことも、さほど気にはならなかった。ここ数年、帰りの遅くなったわたしを、妻が起きて待っていることなど、めったになかったから。  
 ダイニングの明かりをつけて、テーブルの上にメモが置いてあるのを見ても、何も感じなかった。いや、メモの内容を読んだ後でも、何も感じなかったような気がする。  
 メモには、しばらく実家に帰る旨が、妻の字で書かれていた。理由は書かれていない。  
 わたしは、妻の実家に連絡を取ろうとして思いとどまった。こちらから連絡を取って、帰って来てくれというのは、自分の非を認めることになるのではないだろうか。わたしはそれだけは避けたかった。わたしに非があるとは思えないのだから。  
 今考えてみれば、妻が何に腹を立てて出て行ったのか、それだけでも確認しておくべきだったのかもしれない。だがわたしは疲れていた。上司の機嫌を取り、客の機嫌を取り、家に帰って妻の機嫌まで取る気にはなれなかった。  
 それから三日、妻からは何の連絡もない。  
 蒸し風呂のような家に入り、真っ暗な中をダイニングまで行って、手探りで明かりをつけようとしたときに、部屋の隅でグリーンのランプが点滅していることに気がついた。留守番電話に、メッセージが入っていることを示す表示だった。夕べ帰って来たときには、点滅していなかったはずだが、自信はない。わたしが気がつかなかっただけかもしれない。  
 妻からの電話に違いないと、わたしは再生ボタンを押した。  
 機械的な女性の声で、まず録音件数が伝えられた。件数は一件。続いて録音された日付と時刻。今日の午後一時十三分だった。  
 妻が何をいってきたのかと、上着を脱ぎながらわたしは耳を傾けた。  
 「もしもし」  
 だが電話から流れて来た声に、聞き覚えはなかった。テープが吐き出した声は、幼い子供のものだったのだ。おそらく小学校の低学年か、もしかするとまだ小学校前なのかもしれない。声の感じからは、男の子か女の子かの区別はできなかった。少なくとも、息子の声ではないが、息子の友達なのかもしれない。まだ三才の息子の友達が、電話をかけてくるものかどうか、わたしにはわからなかった。よく考えてみれば、わたしは息子の友達の名前をひとりも知らない。聞いたことはあるのだろうが、覚えていないのだ。  
 「ごめんね。今日行かれなくなっちゃった」  
 録音された声が続けて言った。なんだか、泣き出しそうな声だった。かすれて、どこか遠くの方で喋っているように聞こえる。不安な気持ちが伝わってくるようだった。どこかに遊びに行く約束をしていて、行かれなくなったことが悲しいのか、留守番電話に慣れていないために不安気なしゃべり方になっているのか。それとも、もともとこういう声なのか、わたしには判断できなかった。こっちまで悲しくなりそうだった。  
 「じゃあね」  
 なんだか突き放すような言い方で、電話は切れた。  
 おそらくこれは、息子の友達ではありえないだろう。なにしろ息子は、妻と一緒に三日前からいないのだから。その息子が、友達と今日会う約束をしているはずがない。結局は単なる間違い電話だったわけだ。かわいそうに。きっと、だれか友達の家に遊びに行く約束をしていたのが、急にだめになったから、連絡をしたんだろうに。悲しそうな声は、きっと友達と遊べないからだろう。親から「だめ」といわれたのか、具合でも悪くなったのか。きっと友達は、ずっと待ち続けていたことだろう。  
 わたしは、疲れが倍増したような気がして、椅子にすわりこんだ。人騒がせな電話だ。  
 気持ちを切り替えるために、キッチンへ行って、水を飲んでから着替え始めたが、気分はあまり晴れなかった。ダイニングの方から、軽やかなチャイムの音が聞こえてきた。結婚祝いにもらった時計で、毎正時に時間の数だけチャイムを鳴らしてくれる。チャイムの音は、一回鳴っただけだった。すでに、午前一時なのだ。  
 わたしは、自分がいつベッドにもぐりこんだのかも覚えていなかった。  
 
 翌日、やはり疲れた体を引きずって家に帰りついたわたしを、思ったとおり、妻も息子も迎えてはくれなかった。暑苦しい家の中は、朝わたしが出ていったときのまま、静まり返っていた。ただ、暗い家の中に、ぽつんと灯ったグリーンのランプが、そこだけ息をしているようで、まるで深海魚のように見えた。また留守番電話だ。  
 ふと考えてみたら、わたしは結婚してから、うちの電話にメッセージが残っているのを、見た記憶がないような気がしてきた。結婚して五年になるが、その間、誰もいない家に帰ってきたことがなかったのか、それとも、そういう時でも留守番電話にメッセージが残っていることがなかったのか。  
 どうもちかごろのわたしは、かなり疲れているようだ。いろいろなことの記憶が、やけに曖昧になっている気がする。最後に妻や息子とまともに喋ったのは、いつのことだったろうか。そう考えたわたしは、息子の顔を思い浮かべようとして、とまどいを覚えた。一瞬、息子の顔が出てこなかったのだ。そんなばかな、と頭を振ると、出てきた息子の顔は変にゆがんでいた。一緒に浮かんできた妻の顔も、表情が欠落している。  
 たぶん、妻が出ていったのは、わたしがいけなかったのだろう。留守番電話に残されているこのメッセージが妻からのものだったら、そしてもしまだ妻が怒っているようだったら、わたしの方から連絡して、素直に謝ることにしよう。いや、たとえそうでなかったとしても。  
 そう考えながら再生ボタンを押したわたしの期待は、またもや大きく裏切られた。  
 「もしもし」  
 録音時間は、今日の二時六分だったが、スピーカーから聞こえてきた声は、昨日と同じ、幼い子供の声だったのだ。二日続けて間違えるとは。たぶんこの子は、友達の電話番号を間違えて覚えているのだろう。わたしの家の番号と、一番違いなのか、よく似た番号なのか。  
 「あのねぇ、二時ごろ行くからね」  
 昨日と同じように、泣き出しそうな声だった。  
 どうも、よくわからない。  
 これから行かれるというのに、この子供は、なぜ悲しそうな声を出しているのだろう。そもそも、電話の録音時間がすでに二時を過ぎているのに、「二時ごろ行く」というのは、いったいどういうことなのだろう。まさか、夜中の二時という意味ではないだろうが。  
 わたしがそこまで考えた瞬間に、テレビの上に置いてある時計のチャイムが鳴り始めた。びっくりして振り返ろうとして、ダイニングの入り口が目に入った。そこに、子供が立っていた。いや、幼い子供ぐらいの大きさの、黒い影のようなものが見えたのだ。  
 わたしは、心臓が止まる思いがして、その影に目を凝らした。  
 もちろんそれはわたしの錯覚だった。廊下の壁に立てかけて置いてある、ゴルフバッグが、影の正体だった。時計のチャイムは、十二回鳴ってから静かになった。  
 わたしは苦笑して、寝室に向かった。  
 明日は土曜で仕事も休みだし、妻の実家に連絡してみることにしよう。  
 
 胸に感じた重苦しさで、わたしは目を覚ました。なんとなくまわりが明るく感じるところをみると、どうやら夜は明けているらしい。感じからすると、もう昼近くか、ひょっとするともっと過ぎているのかもしれない。  
 だが、そんなことは問題ではなかった。目を開けたわたしの目の前に、黒いかたまりが迫っていたのだ。  
 あおむけになったわたしの胸にのしかかり、その黒いかたまりは、わたしの顔を覗きこんでいた。目鼻立ちなどわからないほど間近に迫っているうえに、そいつの背後の昼の明るさで、そのかたまりの黒い陰がいっそう強調されている。生暖かい息がわたしの顔にかかる。耳障りな呼吸音は、まるで地の底から響いてくるようだった。そいつはふやけたような手のひらで、わたしの頬をさすっていた。開いた口から唾液が垂れて、わたしの鼻筋を気持ち悪く濡らした。  
 わたしは悲鳴をあげていたかもしれない。起き上がりざまに、そいつを左手で払いのけた。黒いかたまりは吹っ飛んで、壁に当たって鈍い音をたてた。体をねじって、まわりが明るいのも忘れてベッドサイドのスタンドに手を伸ばそうとした瞬間、今突き飛ばしたかたまりが目に入って、わたしは息をのんだ。  
 そこには、三才になる息子がうずくまっていたのだ。首をおかしな方向に曲げ、見開いた目があらぬかたを見ている。いや、すでに何も見ていないであろうことは、わたしにも理解できた。わたしに突き飛ばされて、首の骨を折ったのだろう。口元からよだれが一筋垂れているのが、やけにはっきり目についた。  
 戸口のあたりに人の気配を感じて振り向くと、いつ帰ってきたのか、実家にいるはずの妻が立っていた。妻の顔に張り付いた表情が、驚愕なのか恐怖なのか怒りなのかは判断できなかったが、思い切り開けた口からは、声は出ていなかった。いや、単にわたしの耳に入って来ていなかっただけかもしれない。  
 わたしの意識は、戸口に立っている妻を通り越して、その後ろにいる見知らぬ男の子に向けられていた。その男の子は、薄笑いを浮かべているようにも、べそをかいているようにも見える、判然としない表情のまま、動かなくなった息子をじっと見つめていた。その口が「来たよ」と動いたように見えたのは、わたしの錯覚だったかもしれない。だが、その子の身長が三十センチほどにしか見えないうえに、腰から下がぼやけているのは、わたしの錯覚ではありえなかった。  
 ダイニングから、時計のチャイムの音が聞こえてきたが、何回鳴ったのか数える余裕は、わたしにはなかった。  
 


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