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[ エッセイのようなモノ ]
ネタがない

1999.08.12

 エッセイのようなモノを書こうと思って、パソコンに向かいキーボードに手を乗せてふと気がついた。ネタがない。  
 もちろん問題は、ネタ集めをサボったわたしの怠慢な性格であり、手持ちのネタで文章をでっちあげることができない、わたしの能力のなさなのだが、それにつけてもネタがないものはどうしようもない。  
 そうはいっても、二週にわたって休んでしまったのだ。そうそう休んではいられないから、なんとかひねり出そうと努力はしてみるのだが、暑くてやる気が出ない。まあ、もともとわたしの「エッセイのようなモノ」を毎週楽しみにしている読者がいるとは思えないから、二週間休もうが二ヶ月休もうが、このままやめてしまおうが、誰も気にはしないだろう。だがもし万が一、わたしの「エッセイのようなモノ」を楽しみにしてくれている人がいたとしたら、あまり休んでばかりいては、その人に申し訳ないだろう。いや、正直にいこう。そういう人がいてくれたらいいなぁ、という願望がもちろんあって、いもしない愛読者を大事にしようなどという、つけあがった根性が芽生えてしまったのである。だからといって、ネタがなくてはどうしようもないのだが。パソコンを前にして、腕組みをして、髪をかきむしり、やたらと吸い殻を積み上げていく。一丁前の作家のつもりになっている。ギャラはどこからも出ないのに、だ。  
 お仕事でプログラムを組んでいる場合、かりにそれがうまく動かなくて、同じようにパソコンを前に腕組みをし、髪をかきむしり、煙草は喫煙所に行かなければ吸えないので、しょっちゅう席を立ったりしていても、作らなければならないものは決まっているのだから、あとは、どうやろう、ということを悩んでいるだけで、目的地ははっきりしている。だから、楽というのは問題があるだろうが、それなりに逃げ道はある。それなりの努力と、経験に裏打ちされたごまかしで、なんとか作りあげてしまうことはできる。それに対して、小説のようなモノやエッセイのようなモノを書こうとしている場合、しかもネタがまったくないのに書こうとしている場合には、悲惨なものがつきまとう。どこか誰かが、「ネタがない場合の小説のようなモノの書き方」のようなモノを書いていたが、はっきりいって、実際にそんなことができるはずはないのである。  
 小説にしろエッセイにしろ、たとえそれが「のようなモノ」だったとしても、本来は書きたいことがあるから書くのである。書きたいことがないの場合は、本来なにも書けないのだ。  
 たとえば、子供が粘土やブロックで遊んでいるとしよう。ぞうさんを作ろうとか、ロケットを作ろう、という方向が決まれば、あとは作っていくことができる。だが、何を作ろう、という方向がきまらなかったら、それはただ単に粘土やブロックをいじくりまわしているだけのことになって、結局何もできずに終わってしまう。まあ、まれにすごいものができてしまったりすることもあるだろうが、そんなことはめったにない。  
 何を作ろうか、何を書こうか、そういうことを悩んでいる状態というのが、一番悲惨なのである。いまがその状態。  
 まともなエッセイの場合には、このあたりから「人生もそれと同じで」とか「便利な道具というのも、結局は目的があってこそ」といった、もっともらしいはなしに持ち込んだりするわけだ。しかも、ここまでの文章はあくまでも前振りで、当然のことながら、そのもっともらしいはなしの方が、本来のテーマであったりするのだが、わたしはそんなことはしない。  
 今回のテーマは、あくまでも「ネタがない」なのである。こんな話題で原稿用紙四枚分埋めてしまうのだから、わたしもまんざら捨てたものでもないかもしれない(爆)  



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