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2000.02.02
先日、うちのサイトをはじめて見てくれた知り合いから苦情をいただいた。曰く、「エッセイが難しくて、なにがなんだかわからない」とのこと。 どれを読んだのか確認したら「正しい辞書の使い方」だという。そりゃあなた無理もない。あれは書いた本人だって、なにがなんだかわからないんだから。ってないいわけをしたところで納得はしてくれないだろうから、とりあえず「これなら読みやすいよ」というのをピックアップすることにした。で、自分の書いたものを読み返してみたわけだが、これがどうも。どれを読んでも読みにくい。 いつのまにこんなことになってしまったんだろう。横書きバージョンで読んだから、なんてぇ言い訳は通用しない。どれもこれも言い回しがくどくて、読む気になれないのだ。 常連のみなさんは、よくこんな文章を我慢して読んでましたねぇ。わたしだったら、とっくに読まなくなってるな。 ということで反省して、もう少し読みやすい文章を書くように心がけよう、と思ったのはいいのだけれど、じゃあ「読みやすい文章」ってどんなの? ということになる。 たしかどこかに「読みやすい文章を書く」なんてぇ文章があったような気がして、ためしにそれを読んでみたのだが、あんまり役に立たないような感じである。って、オイ。 ひとつひとつの文章があまり長くならないようにして、繰り返しの表現やくどい言い回しを避ければいいのだ、ということはわかっているのだが、じつはこんなことになってしまった理由に、思い当たるフシがある。 十代のころ。暇さえあれば、原稿用紙を汚い字で埋めていたころのはなしである。 わたしの文章は薄っぺらだった。いや、今だって薄っぺらだが、昔はもっとひどかったのだ。描写がいいかげんというか、説明不足というか。もともと、それほど表現したいものがなかったから、ということなのかもしれない。心理描写もろくになく、風景の描写なんぞ、したこともなく。とにかく、読み返してみると「何がいいたいんだ?」と、自分でも思ってしまうような文章ばかりだった。それを反省して、なんとか中身の濃い文章にしよう、と努力した結果がこれなのである。薄っぺらなまま、単にくどくなっただけ。 これはよくない。 本来、言いたいことがはっきりしていれば、問題はないのである。言いたいことに焦点をあてて、そこはきっちり書く。それ以外の部分は可能な限り削り取る。そうすれば、すっきりと読みやすく、中身の濃い文章になるはずなのである。ところが、そんなことをしてしまうと、わたしの文章の場合、とんでもないことになってしまうのは、みなさんご存知の通り。これまでの文章を読めばわかると思うが、そのほとんどが、最後の一行の間抜けなオチのために、くどい前振りをしているだけなのだ。結局「いいたいこと」というのは最後のオチだけということになって、それ以外の部分を削ってしまうと、たった一行だけの文章になってしまうのである。 困ったもんだ。 考えてみれば、もともと「自分の文章が薄っぺらだ」などという反省にもとづいて努力した結果がこれなのだから、ここはやはり基本に返るべきなのかもしれない。つまり「よけいな反省はしてはいけない」と。うっかり反省なんぞしようものなら、物事はよけいひどくなるんだ、というこれは良い例なのかもしれない。 そうはいっているが、今の状況自体、反省してしまったことを反省しているわけで。反省してはいけないのだとすると、反省してしまったことを反省することもいけないことになり、それを反省することもまた…… 結局今回もくどいし。 まあ、平気で読んでる人もいるわけだから、これはこれでよしとしちゃいますけど。 |
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