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[ エッセイのようなモノ ]
春爛漫

2005.05.07

 駅のホームに降り立つと、強い風の中に、薄い煙が充満していた。よく見るとそれは、風に舞い散る桜の花びらだった。  
「なるほどこれが花吹雪というやつか」  
 ひどく感動して、わたしはしばらくの間、ホームから桜吹雪を眺めていた。  
 天気は快晴で、汗ばむほどの日差しだった。だが、ときおり吹き抜ける強い風は、春の嵐の名のとおり、桜の木を蹂躙している。舞い散る花びらはきらきらと輝いて、あたりを別世界のように見せている。一瞬、桜の木が燃えて、煙が出ているのではないか、と思いたくなるような花びらの舞い方で、花吹雪のために、そのむこうにある桜の木がかすんで見える。わたしは、線路のむこうの桜の木を眺めながら、ホームの端にある喫煙所まで行き、タバコに火をつけて、その幻想的な光景を、ゆっくりと鑑賞することにした。だが、二、三服したころに、タバコの煙が邪魔になり、ほとんど吸っていないタバコを、ためらいもなくもみ消した。  
 考えてみれば、今までにも桜の花びらが散るのを、見たことがないわけではない。自宅の庭に桜の木があったころには、毎年必ず見ていたのだし、今だって、桜の木があるところに行けば、風に舞い踊る桜の花びらをみることは、いくらでもできるはずだ。  
 なのにわたしは、まるでそのとき初めて桜吹雪を見たように、なかば呆然としてその光景を眺めていたのだった。  
 やがて待ち合わせの相手が現れて、わたしたちは駅をあとにした。桜で煙る光景が見えなくなることは、残念ではなかった。目指すは、たった今まで眺めていた公園なのだから。  
 公園にいたる小道にも、桜の花びらは降り注いでいた。散り積もった花びらが、まるで日陰に解け残った雪のように見える。携帯電話に内蔵されているデジタルカメラで撮影してみたが、やはり安い機械には、この美しさは理解できなかったらしい。何度撮りなおしても、薄汚れた花びらが積もっているようにしか見えなかった。  
 公園内は、すでに宴たけなわだった。おそらく、桜の木の数よりも、人の数の方が多いに違いない。ところ狭しと広げられたシートの上で、老若男女が花見に興じている。土が盛り上がって傾斜している場所にまで、陣取っている集団がいて、斜めになった体を踏ん張りながら、酒や食い物が転がらないように気をつけつつ、酒盛りをしている。桜の梢を揺らす風の音と、歌声や笑い声が複雑に入り混じって、頭の中が心地よくシェイクされる。  
 不思議なことだが、桜の木の下で宴会を繰り広げている人々を、これほど好ましく思ったことは、これがはじめてだった。これまでに見た花見の光景は、いつでも酔漢とゴミばかりが記憶に残り、明らかに、花見ではなく、単なる宴会もしくはバカ騒ぎでしかなかったのだ。それがなぜ、この日に限って「ああ、これが花見なのか」と思ったのだろう。  
 もしかしたら、桜の花の多さだったのかもしれない。上を見上げても、空が見えないほどに生い茂った桜。広がっている枝が低いこともあり、桜の木の下にいるというよりも、まるで桜の花の中にいるのではないか、と錯覚するほどの花の咲き誇り方は、人の心を浮き浮きさせる何かがあってもおかしくない、と思わされる。  
 いや、実際にはその時は、そんなことまで考えてはいなかった。桜の花の美しさに、ただただ酔いしれていただけだった。  
 それから三週間後、わたしは青森県にいた。  
 日本の道路百選にも選ばれている、という道路の左右は、雪の残る八甲田を背景に、桜の花が満開だった。ふと、綿菓子というのは、雲や綿ではなくて満開の桜の花がモチーフなのではないか、と思いたくなるような、ふわりとした、それでいてこんもりとした花の咲き方だった。  
 車道と歩道を隔てる位置には松の木が植わり、桜の木は広い歩道の奥まった位置に並んでいる。そのため、車で通ると、どう考えても松が邪魔でしょうがない。それでも、松の枝の隙間から見える満開の桜は、そのあたりだけ霞がかかったように見えるのだった。  
 日中は、車で通過するだけで我慢して、夜になってから、ライトアップされている桜の下を歩いてみた。  
 夜空をバックに、所々明るく照らし出された桜の花を下から眺めると、まるでピンク色の入道雲が、覆いかぶさってくるようだった。じっと見つめていると、頭の中まで桜色に染まってしまうようで、ある種の息苦しさを感じることもある。  
 風もなく、ときおり思い出したようにはらはらと花びらが降ってくるさまは、あの桜吹雪とはまた違った風情があって、これもまた幻想的だった。  
 どちらの光景も、日本人が花見をしたがることを、納得させられるものだった。  



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