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いくら「のようなモノ」とはいえ、小説っぽいものを書くということは、かなり大変なことです。何の準備もない状態で書こうとすると、すぐに行き詰まってしまうでしょう。
そこで、ここでは、小説(のようなモノ)を書くために役立つ練習のようなモノを紹介してみます。もちろん、それが本当に小説(のようなモノ)を書くときの役に立つかどうかはわかりません。とりあえずやってみて、自分で判断してください。
中には、特に小説にかぎらず、他のことでも役立つ情報が、あるかもしれませんしないかもしれませんし(笑)
目次 |
ここで言う道具とは、もちろんワープロやパソコンのことです。せっかく便利な道具なんですから、使いこなさなきゃもったいないでしょ。とはいっても、なにもワープロのあらゆる機能を使えるようにしよう、とか、パソコンで表計算ソフトやデータベースを使えるようにしよう、とか言うつもりはありません。まあ、できるにこしたことはないでしょうが、「小説のようなモノ」を書くのには必要ありません。
ここで必要なのは、ワープロにしろパソコンにしろ、文章を入力する道具として使いこなすための技術です。
早いはなしが、いかにすばやく正確に文章を入力できるようになるか、ということ。ブラインドタッチとか、タッチタイピングとかいう、あれです。ここでは、便宜上タッチタイピングと呼ばせていただきます。最近は、練習用の本やらソフトやら、いろいろと出ているようですから、適当に選んで努力してみてください。
わたしは、十年ほど前に一週間ばかりかけて練習したおかげで、文章の入力は、はっきりいって紙とペンを使うよりもキーボードを使った方が早いほどです。ただし、いい加減な性格のせいで、あまりちゃんとした練習をしなかったので、キーボードの一番上の列、数字が並んでいるところは、多少カンニングをしないと入力できません。それから、「シフトキー」を押しながらの入力も、いまひとつ正確ではありません。まあ、そのあたりは通常「小説のようなモノ」を書く場合には使用しませんので、あまり気にすることはないんですが、仕事では思いきり使いますので、結構苦労してます。ということで、これから練習を始めよう、という方は、できればきちんと、練習を最後までやり遂げることをお勧めします。
中には、「チャットで鍛えたから大丈夫」と、片手三本指ぐらいでかなり高速に入力のできる方もいらっしゃるでしょうが、三本指でそれだけ早ければ、五本使えば(両手で十本)もっと早くなるはずです。ただ、おかしな癖がついてしまっている場合、正しい指使いに直そうとすると、吐き気がするほどイライラしてくるものです。前の状態の方が絶対に早い!と思いたくもなることでしょう。でも一週間ほど我慢して練習してください。タッチタイピングの練習は、小説のようなモノを書くためばかりのものではありません。まずなによりも、見た目が格好いい。これだけでも充分に練習する価値があるというものです。人によっては、仕事にも役立つでしょうし、もちろんチャットだって速くなります。ボケの防止にも役立つそうですが、天然ボケには効果はないようです。一週間程度の練習で、その後一生役に立つわけですから、こりゃもうやらないよりはやったほうがいいってもんでしょう。
さて、タッチタイピングの練習には、「かな入力」と「アルファベット(ローマ字)入力」とがあります。どちらがいいか、という点についてはいろいろな意見があるでしょうが、わたしは断然「ローマ字入力」をお勧めします。
まず、基本的にどんな機種のワープロ、パソコンでも使える、という点。これは大きいです。「親指シフト」という特殊な入力方法を推奨している富士通のワープロでも、アルファベットの配置は同じですし、ちゃんとローマ字入力もできます。しかも、ローマ字入力を覚えるということは、当たり前のことですが、アルファベットの入力を覚える、ということですから、ワープロ・パソコンだけでなく、タイプライターだって打てるようになるわけです。まあ、和文タイプは無理でしょうが。
もし「カナ入力」だけしか覚えなかった場合、小説のようなモノを書く際に、アルファベットが一切出てこないというのならば別ですが、一文字でもアルファベットが出てきたら、それまで軽快にキーボードの上を踊っていた指がピタリと止まり、「A,A,A。Aはどこだ?」と探し回る羽目になります。それを避けるためには、「カナ入力」と「アルファベット入力」の両方を覚えなければいけません。単純計算で、「カナ入力」は約50、「アルファベット」は26です。合計80近いキーを指先が覚えなければならなくなります。
でも、「ローマ字入力」ならば、基本的にアルファベットだけ覚えればいいわけですから、26だけで済みます。もちろん、各種記号や数字の配置も覚える必要はありますが、これは「カナ入力」のときにも同じこと。そう考えれば、「ローマ字入力」の方がお得だってことはわかるでしょう。
人によっては、「文字を入力するときに、いちいちローマ字に直して考えるなんてできない」という人もいるでしょう。が、よく考えてください。普通、紙にペンで字を書くときに、「ひらがなの”あ”はこう書いて、ひらがなの”い”はこう書いて」などと考えているでしょうか?ひらがなを覚え始めたばかりの方なら別ですが、そうでなければ、もういちいち字の形なんて考えていないはずです。ローマ字入力だって一緒です。一度指先が覚えてしまえば、頭の中でいちいち変換しなくても、指が勝手に動いてくれます。要は慣れの問題です。
ただ、ときどき特殊な文字の入力で困ることがあるかもしれません。たとえば「ぁぃぅぇぉゃゅょっ」などの小さい文字。これは、通常それぞれの前に「L」(大文字小文字の区別はありません、たぶん)を入れることで、入力が可能になります。つまり「ぁ」だったら「la」。「っ」だったら「ltu」です。これは、ワープロの機種によっては「L」ではなく「X」の場合もありますので、ご使用のワープロ、パソコンの説明書を見てください。ほかにも、「でゅ」とか「ぢゅ」なんてぇのもありますが、この手の文字の変換も「dhu」や「dyu」を覚えれば、あとは指が勝手にやってくれます。これも、説明書のどこかに書いてあるはずです。この手の特殊な表記の変換は、最初にすべて覚える必要はないと思います。出てきたところでちょいと調べる。もしくは当たりをつけてやってみる。まずは基本の文字の入力を覚えましょう。
ある程度キーボードを見ないで入力ができるようになったら、あとは慣れる努力をしてください。そのうちに、紙にペンで書くよりも、キーボードで入力する方が確実に早くなります。そうなるともう、頭の中にあふれ出てくるイメージを文章にするのも、かなり楽になるってもんです。
1998.05.05
ここで言う敵とは、「小説のようなモノ」のことです。いや、「小説」と言っておいた方がいいでしょうか。自分で書くのは「のようなモノ」だとしても、参考にするのはちゃんとした「小説」の方がいいに決まってます。
はっきり言って、一度も小説を読んだことがない人には、たとえ「のようなモノ」だとしても、小説を書くことはできません。本当は、一度や二度読んだだけでは全然足りないのです。たぶん、百や二百でも足りないでしょう。読めば読むほどいいのは当たり前のことです。
ただ、なんでもいいから読めばいいか、というと、もちろんそういうわけにはいきません。ひどい作品を山ほど読んで、それがあたりまえだと思ってしまうと、ひどい目に会います。だからといって、「すばらしい!」といわれる作品ばかり読んでも、何がどう「すばらしい」のか、わからなくなってしまいます。もっとも、「ひどい」にしろ「すばらしい」にしろ、何がすばらしくて何がひどいのかは、読んだ人の感性に左右されますから、結局はたくさん読んでその中から自分で「これはすばらしい!」という作品を探し出すしかないんですけどね。
そういった事情で、わたしが「これはいいですよ」と薦めるわけにはいきません。もっとも、わたしに薦められたところで、何の信憑性もないんですから、誰も知りたいとは思わないでしょうが(笑)
一応、<a href="../kanso/kanso.cgi?TYPE=Y">「感想文のようなモノ」</a>なんてぇコーナーもありますが、読んでいただければお分かりの通り、必ずしもいいと思った作品を取り上げているわけでもありませんし、悪いと思った作品だけをやっつけているわけでもありません。場合によっては、誉めながらけなしたり、けなすだけけなしてからちょいと誉めるなんてこともやってます。
ついでに言ってしまうと、読んでも<a href="../kanso/kanso.cgi?TYPE=Y">「感想文のようなモノ」</A>を書かない場合もあります。その場合でも、ひどすぎるから書かない場合もあり、文句のつけようがなくて書かない場合もあり、なんとなく書かない場合もあり、とさまざまです。
なんにしても、いいと思うものも悪いと思うものも、たくさん読んでください。そういう場合でも、ついつい興味のあるジャンルのものばかり読んでしまうものですが、できれば興味のないジャンルの小説にも、多少目を通すようにしておきましょう。どこでどんな役に立つかもしれませんし、それがきっかけで興味が湧いてくるかもしれません。
本当は、小説ばかりでなく、小説以外の文章にも慣れ親しんでおく必要があります。いろいろな専門書とか、エッセイやコラムとか。文章の書いてあるものは、かたっぱしから読むのがいいんですが、なかなかそうはいきません。まあ、可能な限り、ということで、できるだけ本を読んでください。小説以外の本から、なんらかのアイデアを得られる場合だってありますから。
ただ、ひとついえることとして、できればたくさん読む中でも、好きな作家を見つけてください。で、その人の作品を何度も読んでください。何度も、というのはもちろん、同じ作品を何度も、という意味です。おもしろい作品ならば、結末までわかっていても、何度読んでも面白いはずです。べつに、同じ作品を繰り返し、続けて読み続ける必要はありません。書店に行ってもおもしろそうな本が見つからなかったとき、自分の部屋の本棚から取り出して、もう一度読んでみる、という感じで充分です。
同じ作者の同じ作品を何度も読んでいるうちに、その文体が自分のものになってきます。本当は、意識して真似るようにした方が早く身につくのですが、「のようなモノ」を書くのにそこまでする必要はないでしょう。
さて、「敵を知り」ってことですので、本当はただ読めばいいというものではありません。ある程度、その作品を分析するようなことをしなければなりません。
分析の内容に関しては、いずれ別の章で詳しくやるつもりですので、そちらをご覧ください。
1998.05.05
以前、電車に乗っている時に変わった人を見かけたことがあります。その人は、ずっと独り言を言いつづけていたんですが、その独り言がとても変わっていました。どうやら、架空の、というかわたしには見えない会話の相手が存在するようで、その相手とずっと喋っているのです。それも普通の会話を。もちろん、見えない相手はその声も聞こえませんから、こちらの耳に入ってくるのは、その人のセリフだけ。ところが、これがちゃんと会話になっているのです。しかも、会話の内容が、こちらにもなんとなくわかる。最初のうちはその人のことが少し気持ち悪かったんですが、そのうち恐くなってきました。もしかしたら、会話の相手はちゃんと存在して、わたしの目に見えないだけなんじゃないか、と。不安になってまわりを見回してみると、近くにいた何人かの人が不信そうな目でその人を見ていましたから、会話の相手はその人にしか見えていないようなんだ、ということがわかって少し安心しましたが。
で、その時のまわりの人の反応がなかなかおもしろい。
明らかに嫌悪感を抱いているような表情の人もいたし、心配そうに見ている人もいたし、自分には関係ないといいたげにそっぽを向きながらも、横目でちらちら見ている人もいた。そのうえ、そういう人たちを何気なく観察してるわたしがいるわけですから、それをまた別の人が観察していたらおもしろかっただろうなぁ、と。
そういう少し異常な状況ではもちろんそうですが、あたりまえの状況でも、人それぞれ性格が違うわけですから、物事に対する反応はまちまちです。
たとえば、エレベータを待っているときに、ドアの正面に額をつけんばかりに近づいてぴたりと立っている人がいます。で、ドアが開いたときに、いきなり中から人が降りてきて、双方びっくりするわけですが。この人の場合、自分がボタンを押してエレベータを呼んだ、という事実が発生した瞬間に、降りてくる人がいる、という可能性はどこかに消えてしまうんでしょうね。
だからなに、ということですが(笑)
小説のようなモノを書く場合に重要なことは、登場人物の書き分けです。
小説の新人賞の選考委員の寸評なんぞを読んでいると、「人物の書き分けができていない」とか「登場人物がみな生き生きしていて」とかいうのが、よく出てきます。
で、その書き分けの方法として、この手の観察結果を使うわけです。
例えば、かなり自分中心なものの考え方をする登場人物がいたとします。その場合、「彼は自分中心なものの考え方をする男で」と書くよりも、自分中心であるがために、どういう行動をとるかを描写した方が、より小説っぽくなるのです。
で、少し前の例えに出てきたエレベータの前にいる人ですが。この人が実際に自己中心的なものの考え方をする人かどうかは、わかりません。しかし、見た感じからそうなんじゃないか、と思えれば、それは小説のようなモノに使えるわけです。
逆にそこまで深く突っ込んだ観察でなく、もっと表面的な観察も必要になります。
自分の書いた小説のようなモノを、少しでもオリジナリティのあるものにするために、よくある表現は避けた方がいい、というのがあります。例えば、
「眉間に皺を寄せて考え込む」
「目を三角にして怒る」
なんてぇ表現は、極力避けた方がいいわけです。
そこで、まわりの人間が何か考え込んでいるときや、怒っているときに、それを観察するわけです。そういう場合、おもしろいことに、ある程度の共通点があるのです。考え事をしている場合など、天井を見上げる人と、うつむく人がいますが、基本的に正面を見据えて考え事をする人はあまりいません。上や下でなくても、視線は必ずといって良いほど上下左右のどこかにずれているはずです。で、それを小説のようなモノの中で使う、というわけです。単純に「眉間に皺を寄せて」と書くよりも、「あらぬ方向を見据えてぶつぶつ言い始めた」と書いた方が、少しはそれっぽくなるはずです。ただし、「あらぬ方向を見据えて」という言い回しも、よくある表現ですけど。
で、この逆をやる、という手もあります。どういうことかというと、登場人物に他人と違う癖を持たせることで、その人物の特徴を出す、というもので、たとえばある人物は考え事をするときには、右手の親指と人差し指で下唇をひねる癖がある、とします。そういう癖を何個所かで提示しておいて、その後で、その人物がまわりの人間と普通に会話しているシーンで、その癖を出させます。そうすると、読者には「あ、こいつ今何か考えてるんだ」ということがわかるわけです。
そういうことに使うためにも、普段から情報を仕入れておくのは大切なことです。
先に出てきた電車の中の人物のような場合、たしかにちょっと恐かったりする場合もありますが、そういう場合でも単純に嫌悪するのではなく、少し離れたところから、さりげなく観察をしてみると、なかなか面白いものですから、小説のようなモノを書くため、ということを別にしても、一度試してみるといいと思います。
ただ、そういう場合、世の中にはいろいろな人がいるということをきちんと頭において、充分注意するようにしてください。喧嘩を売っていると思われたり、惚れてると思われたりしても、わたしは責任は負いません。ひどくなると、自分が変な目で見られちゃうかもしれませんが、その時はその時。変な人を見るまわりの態度を、じっくり観察してしまいましょう。
1998.05.05
最近はあまり話しを聞かなくなりましたが、ディベートというやつ、一時期やたらとはやりました。まあ、話しを聞かないからといって、世の中からディベートがなくなったわけじゃなくて、単にマスコミが騒がなくなっただけですけどね。書店へ行って、ビジネス書関連の棚を見れば、今でもちゃんとディベート関連の本はあります。
一応、ディベートを知らない方のために説明しておきましょう。
まず、二手にわかれます。これはひとり対ひとりの場合もありますし、複数対複数の場合もあります。通常は、この他に審査員のようなものも用意します。
で、何らかのテーマを用意します。これはまあ何でもいいんですが、今時のテーマでいけば、「援助交際について」とか「中学生がナイフを持つことについて」なんてぇのがあるでしょうか?その決められたテーマに対して、二手に分かれた双方が、一方は賛成派として、一方は反対派として意見を戦わせるわけです。
その場合、自分本来の意見が反対だろうが賛成だろうが関係なく、与えられた側の意見を提示しなければならないわけです。
通常は、テーマと賛成派か反対派かを決めたあとに、多少の時間が与えられます。その間に、情報を仕入れ、資料をまとめ、対決に備えるわけです。で、本番になったら、順番に何分かごと交互に、意見を言い合うわけです。その場合はもちろん、先に相手が言ったことに対する反論を、資料に基づいて行わなければなりません。
これはもちろん、最終的にどちらが正しいかを決めるものではなく、どちらの情報収集能力が高く、意見の提示の仕方がうまく、相手の意見を正しく理解しているか、ということで勝敗を決めるゲームなわけです。
さて、ひとりディベートです。
ひとりディベートの場合は、本当のディベートとはちょっと違います。本当のディベートの場合は、ひとつのテーマに対して、賛成派と反対派に分かれるわけですが、ひとりディベートの場合は、賛成と反対に分かれるというよりも、それぞれの意見を言い合う、という形になります。
もちろんひとりディベートってぇぐらいですから、二手にわかれるわけにはいきません。もちろん、自分の頭の中に二人の人間を用意するわけです。その場合、一方は自分にしておいた方が楽でしょうが、両方とも架空の人物設定でもいいでしょう。どちらの場合でも、必ず二人の性格設定をしてください。まあ、簡単なのは、一方が賛成派、一方が反対派という、通常のディベートと同じ設定ですが。
テーマは、別に重たいものでなくてもかまいません。今日の昼飯は何にしよう。なんて単純なものでもかまいません。もちろん、社会派に徹してきちんとしたテーマでもいいわけですが。今日の昼飯をテーマにした場合、さすがに頭の中の二人の性格設定を賛成派と反対派にしてしまうわけにはいかないでしょうから、一方は健康重視型、一方は味重視型なんてぇのにするといいかもしれません。
あとは、頭の中(もちろん、ちゃんと文章にしてもかまいません)でこの二人に意見を戦わせるわけです。できるだけきちんと性格設定にのっとって。まあ、半分は自分の作り出した登場人物に、お話しの中での会話以外の会話をさせるようなつもりでかまいません。
これをすることによって、自分の中にできるだけいろいろな物の見方、いろいろな考え方を用意することができるようになります。
小説のようなモノの中には、いろいろな人が現れるわけですから、それぞれの人がそれぞれの考えを持たなければ、お話しは成り立ちません。出てくる人がみんな善人で、同じ考え方の人ばかりでもかまいませんが、お話しとしてあんまり面白いものができそうな気はしませんよね。
「[[書くための練習のようなモノ#人間の観察|人間観察」の項で紹介したのは、人間の外側、見た目の状態を観察する練習でした。外側の観察というのは、実は自分自身でやるのは非常に難しいことだということは、充分想像できることだと思います。自分が怒っている最中に、どんな表情で怒っているのかなんて、なかなか観察できるものではありません。そこで、他人を観察するわけです。その場合は、相手が実際に怒っているかどうかはあまり問題ではありません。どういう表情が怒っているように見えるか、を分析すればいいわけです。
しかし、小説の中に登場する人々だって、頭の中では何かを考えているわけです。それぞれの性格にしたがって、それぞれ違ったことを考えているはずです。ところが、現実の世界では、まわりの人が実際に何をどう考えているかはわかりません。想像するしかないわけです。そこで、自分の頭の中で、架空の人物を作って、それぞれの性格に基づいていろいろなことを考えてもらう練習をするわけです。
ただ、この練習を外でやる場合は、頭の中で考えるだけにして、間違っても声に出さないように注意してください。そうしないと、「[[書くための練習のようなモノ#人間の観察|人間観察」の項で紹介した電車の中の変な人のようになってしまうことも・・・・あ、もしかしたら、あの人はすでにそれをやっていたのかも。
1998.05.05
小説の中の登場人物は、何もない真っ白な空間に存在するわけではありません。あたりまえのことですが、その人物がどんな格好をしていて、どんな場所にいて、季節はいつで、なんてぇことがちゃんと書いていないと、何もない真っ白い空間に人物だけが存在することになってしまいます。
風景描写は、ちゃんとしましょう。
これの練習は、簡単といえば簡単、難しいといえば非常に難しいのですが。平たくいうと、目に見えるものをすべて言葉で表してみる、というものです。
たとえば同じ駅前の風景を描写しようと思った場合でも、建物の描写、行き交う車の描写、歩いている人の描写はあたりまえとして、季節、天候、時間によっても、その内容は変わってきます。そういったものをすべて頭の中でひねり出すのは、なかなか難しいものです。そこで、目に見えたものをすべて言葉にしてしまう練習をするのです。
こう書くと簡単そうでしょ?ところがこれがなかなか難しい。
目に見えるものといっても、動くものもあれば動かないものもあります。一瞬のうちに通り過ぎていくものと、じっと動かないものを同じように表現していては、その臨場感は出ないでしょう。
でも、最初は気にしないで、とにかく目に見えたものをそのまま言葉にしてしまいましょう。仮に、駅前でそれをやるとしても、なにもメモを取る必要はないでしょう。頭の中で言葉にすればいいのです。はじめのうちは、同じ場所で何度もやっていると、そのうちに、最初は気がつかなかったことにも気がつくようになります。それを、家に帰ってから思い出して文章にしてみる。
その場合でも、それぞれの配分を気にする必要はありません。とにかく覚えていること、思い出したことを、片っ端から書いてみましょう。あとは、出来上がったものを削ったり、順番を入れ替えたり、フィクションを加えたりして、臨場感を出していけばいいのです。
なにも、屋外に限ったことではありません。今自分がいる部屋の状態を、見たままに表現するのでもいいわけです。わたしにとっては、自分の部屋を見る限り、あまり楽しい練習にはなりそうにありませんが。
あとは、たとえば駅から家への地図を、絵ではなく言葉で表してみる、というのもあります。そういう場合、見える物をなんでもかんでも言葉にしてしまうわけには行かないでしょう。目印になるものだけ、ちゃんとわかるように表現しなければなりません。
どの場合も気をつけなければいけないのは、小説のようなモノを書くための練習だということを忘れてはいけない、ということです。
駅からの地図を文字で表すにしても、
なんてぇ書き方ではいけないのは、あたりまえのことです。
この練習の場合、一番簡単なのは、一人称形式でしょうから、最初はそれでいきましょう。慣れて来たら三人称にしてみると、これはこれで難しいことがよくおわかりいただけると思います。
1998.05.05
読みやすい文章を書く練習のひとつとしてわたしが提案したいのは、意識して読みにくい文章を書いてみる、というものです。なんでこんなことを考えたのか、というと、読みやすい文章というのがどういうものなのか、ということを説明するのは難しいけれど、読みにくい文章というのがどういうものなのか、ということを説明するのは、比較的楽だから、というきわめてわたし中心の考え方なんですが。
ちなみに、この項は「文章を小説っぽくする」の中の「読みやすい文章を書く」と連動していますので、そちらもあわせてご覧ください。
さて、読みにくい文章とはどういうものか、という定義ですが、ここではとりあえず「一読して意味がつかみにくい文章」ということにさせていただきます。
読んでもすんなり頭に頭に入って来ない文章というのは、結構あるものです。
まず、単純に読みにくい文章として、ひらがなばかりの文章というのがあげられます。まあ、読み手が幼稚園児だったり、小学校の低学年の場合は、ほとんどひらがなにしておかなければ、読むことはできないでしょうが、そうでない場合には、すべてがひらがな、というのは、かなり読みにくい文章になります。もっと読みにくいのは、カタカナばかりの文章ですが。
では逆に、漢字ばかりの文章が読みやすいか、というと、中国人ならいざしらず、日本人の場合にはやはり、漢字ばかりでも読みにくくなります。そこはそれ、やはり適度な漢字の量というのはあるはずなんですが、これは実に、書き手、読み手の好みと漢字力によりますから、これがベスト、ということはいえないと思います。
で、漢字ばかりの文章は別にして、ひらがなばかりの文章というのは、練習なんぞしなくても書けるでしょうから、これは別に練習する必要はないでしょう。
漢字ばかりの文章にしても、誤字や当て字を使ったのでは意味がありませんから、これはかなり難しい。まあ、明治時代のころから昭和初期にかけての文章なんかは、「是」とか「此れ」、「此処」とか「此所」なんてぇ漢字を使ったりしてますから、このあたりを参考にして、読みにくい文章を書いてみてください。
こういった場合、ワープロならば、あまり漢字を知らなくても、ちゃんと変換してくれますから、けっこう楽です。
次に意味がつかみにくい文章とはどんな文章か、ということですが、まず筆頭にあげられるのは、なんといっても長い文章。句点(。)が一度も出てこないで、原稿用紙一枚まるまる使っているような文章は、非常に読みにくいはずです。
逆に、短い文章なら読みやすいか、というと、やたら短い文章ばかり並べられても、読み手には辛いものがあります。つまり、読みやすい文章には、それなりの適度な長さがある、ということになりますが、それがどのぐらいの長さなのか、ということは、わたしの能力ではわかりかねます。
句点だけではありません。読点(、)がまったく出てこない長文というのも、非常に理解しにくくなります。有名な「ここではきものを脱いでください」という文章。あれですね。
ただこの、「ここではきものを脱いでください」という文章は、読点を使わなくても、意味を取りやすくする方法があります。
ね、これだけでわかるでしょ。
これは、「ひらがなだけでは読みにくい」という例と、「句読点がないと読みにくい」という例の、両方の参考になると思います。
句読点抜きの文章というのは、意識して句読点を入れないようにすればいいわけですから、これはやってみればすぐできます。
できあがった文章を自分で読むと、これがまたわけがわからなくて、なかなか楽しいものです。これに後から、書いたときのことを思い出しつつ、句読点を入れていけばいいわけです。
場合によっては、自分の文章でなくてもかまいません。好きな作家、読みやすいと思う作家の文章を、とりあえず句読点なしでそのままワープロに打ち込んで、あとから自分なりに句読点を入れてみる、という手もあります。その場合は、句読点以外は、必ずすべて元の文章通りに入力してください。
この方法は、漢字の配分の練習にも利用できます。その場合は、句読点はちゃんと入れて、ただし漢字への変換は一切しないで、ワープロに入力します。で、入力したその文章を見ながら、自分なりに、漢字にした方がいいと思う単語を漢字に変えていけばいいわけです。
どちらの場合も、できあがったものと、参考にした元の文章が、同じである必要はありません。できあがったものが、あなたの文体、ということになります。同じである必要はありませんが、少なくとも参考にしよう、と思った文章なのですから、それに近づく感性を養うように努力をするのは、無駄ではないでしょう。
長い文章を書く練習方法としては、とにかくひたすら、長い文章を書いてみるほかには、手はないと思うのですが、その場合に注意しなければならないことがあります。意味のない単語の羅列や、同じような意味になる単語を並べるだけでは、練習にはならない、ということです。つまり、
てな文章は、書くだけ無駄です。
そうはいっても、ド素人の場合には、いきなり長い文章を書くのは、かなり辛いものがあるでしょう。そこで、やり方のひとつとして、単語を少しずつふやしていく、という方法をとってみましょう。
たとえば、こう。
なにも、前に追加するばかりが能ではありません。後ろにも追加してみましょう。
ふたつをあわせてみましょう。
これ、やってみると結構しんどいものがありあます。この例では、何の意味もない文章を書いていますが、ちゃんと意味のある文章で長いダラダラした文章を書くのは、実に難しいことです。しまいには、自分の語彙のなさやイメージの貧困さに、情けなくなってくる可能性もありますが、この練習は、そいうったイメージや語彙を増やしたり、頭の奥の方に隠れているそいつらを、無理矢理引っ張り出してやる、ということの練習にもなりますので、まああまりムキにならずに、のんびりとやってみましょう。
さて、意味のない文章ではなく、意味のある長い文章を書け、といいましたが、ではどうやったら意味のある長い文章が書けるのでしょう。これは最初にある程度意味のある短い文章を用意して、それに説明を盛り込んでいけばいいんです。たとえば、
という文章の中に、彼を説明する部分と、わたしを説明する部分、それに走り方を説明する部分を全部入れちゃえばいいわけです。
これは、やろうと思えば、「昨日の結婚式」の説明や「わたしの姉」の説明、「大学」の説明や「徹夜」した理由なんぞを盛り込んでいけば、原稿用紙一枚ぐらいはかせぐことができます。場合によっては、それだけで原稿用紙三十枚ぐらいにして、しかもちゃんとした内容になっていれば、それはそれでひとつの小説になっている可能性もあります。それだけのものが書けたら、それはそれでひとつの才能である可能性もありますから、意欲のある方は、挑戦してみてもいいかもしれません。結果については責任持ちませんが。
実はこの手の、読みにくい文章の参考文献、というのがありまして。
コンピュータ関係の、少し難しい本を開いてみてください。できれば、日本人の書いたものよりも、外国人が書いたものの翻訳本の方がいいのですが。結構意味不明でダラダラした文章が載っていると思います。ね、いい参考になるでしょ(笑)
これにはもちろん、理由があります。
英語には、関係代名詞という便利な、というか厄介な機能があって、これを使えば、さっきの「彼がわたしの方に走ってきた」の例のようなことがいくらでもできるんですよ。しかもひとつの文章で。
コンピュータ関係に限らず、翻訳ものの専門書にその手の文章が多いのには、理由があります。まず、翻訳している人が、その分野に関しての専門家である、ということ。つまり、本人は内容が理解できてしまっているので、読者にも理解できると思ってしまうってことですね。つぎに、その分野では専門家で、英語も理解できるかもしれないが、日本語で内容を伝える能力に乏しい可能性がある、ということ。つまり、英語を直訳することはできても、わかりやすい日本語にすることができないって場合。
まあ、ここではあまり関係ありませんが。
さて次に、長い文章と近い内容になってしまうのですが、関連する語が遠くにある文章というのも、理解しにくい文章です。
たとえば、「誰が何をした」という文章で、「誰が」と「何を」の間に別の文章を挟みこんでしまうと、非常に意味が通りにくくなります。たとえば、
これはまず、
という短い文章を用意します。これに、先ほどの練習にもあった、「わたし」を説明する語句を後ろに入れて、「彼」を説明する語句を前に入れた例です。そのせいで、「わたし」と「彼」の間が離れてしまい、したがって「わたし」と「聞いた」が離れてしまったわけです。
こういう読みにくい文章というのは、ほかにもいくつかパターンがあるはずですから、これからも時々、ここで紹介してみましょう。で、みんなでがんばって、読みにくい文章を書く練習をしていきましょう!(笑)
99.02.22
本来、小説を書こうという人が「本を読むのは苦手で」などと言おうものなら、まともな「小説の書き方」系の本ならば「そんな奴に小説は書けない」と一喝されてしまうところでしょうが、そこはそれ。ここは「小説のようなモノ」の書き方のサイトですから、そのあたりもなんとかしてしまいましょう。
とはいっても、たとえ「のようなモノ」といっても、まがりなりにも小説っぽいものを書こうという場合には、どうしても小説とはどういうものなのか、ということを知る必要が出て来るのは、しかたのないことです。そのためにはやはり、まったく読まずに済ませるわけにはいかないんですね。できれば、可能な限りたくさん読んでいただきたい。でも、読むのは苦手。さて、どうしましょう。
まずは、読みやすい本を読んで、小説を読む練習をしてみてください。
では読みやすい小説というのはどういうものか、ということですが。
まず、あまり長くないこと。本を読みなれていない人には、長い作品を読むのは苦痛以外のなにものでもないでしょう。できるだけ短い作品を選んでください。
つぎに、あまり難しくないこと。たとえ短い作品でも、やたらと難しい内容では、頭に入ってきません。
とりあえずこのふたつをクリアする小説としては、星新一や阿刀田高志あたりのショートショートがおすすめです。もちろん、他の作家の書いたものでもかまいませんが。読書慣れしていない人にとっては、ショートショートはかなりのおすすめです。
ただし、ショートショートというのは、基本的には細かい描写を極力削っていたりしますから、そういう点での勉強にはあまり向いていません。ショートショートから得られるものは、表現方法や描写というよりも、物語の展開とか、そういうものだと考えてください。というよりも、今ここを読んでいる人は、たぶん本を読むのが苦手な人でしょうから、読んだ本から何かを得ようとするよりも前に、まず小説を読むことに慣れるのが先決でしょう。ですから、そこから何かを得ようなんて考えないで、とにかく数をこなすことを考えてください。物語の始まりからエンディングまできちんと読み終える、ということを、できるだけ多く経験してください。それにはショートショートがうってつけです。
ショートショートよりも、もう少し長めのものを、という方には短編が良いでしょうが、そのあたりからやはり、本を読むのが苦手な人にはちょいと辛くなってくるかもしれません。それでも、文庫本一冊におはなしが十本以上入っている短編集ならば、比較的読みやすいはずです。
まあ無理をせず、短いものをいくつも読んでみてください。
でも、小説を読み慣れていない人の場合、どんな作品が読みやすいか、というのは、少し判断しづらいかもしれません。おおまかな目安としては、紙面が白っぽいものを選ぶのが良いかもしれません。紙面が白っぽいということは、漢字が少ないという場合もありますし、行間が広いという場合もあります。文字ひとつひとつが大きいという場合もあります。とにかく、ぱっと開いて比較的白っぽく見える本は、たぶん読みやすいはずです。
しかし、普通に考えた場合には、あまりそういう小説はないかもしれません。もちろん、まったくないわけではありませんが、なかなか探すのが大変です。
そこで、ショートショートや短編よりは、多少長めになってしまいますが、それでも読みやすい小説はないか、と考えたときに、ちゃんとあるんですね、そういうジャンルが。それは、子供向けの小説。
子供向けったって、絵本とかそういう意味ではありません。小学校高学年あたりの子供のために書かれた小説が、入門用にはかなりいいです。「子供用の本なんか読めるかよ」なんて馬鹿にしちゃいけません。なかなかどうして、あなどれない本が山ほどあるんですから。しかも、よく見れば「子供向け」という大きなくくりの中に、推理小説はある、SFはある、ホラーはある、冒険小説はある、恋愛小説だってなくはありません。つまり、ありとあらゆるジャンルが揃っているわけです。ないのはたぶんポルノぐらいでしょう。
しかもこの手の本には、古今東西の有名な作品を子供向けに直したものもたくさんありますから、普通に読んだら面倒臭い名作も、かなり楽に読めるわけです。これはお得。
さっそく近くの書店に行って、探してみてください。
中には「いい年こいて子供向けの本を買うのは恥ずかしい」と考えてしまう人もいるかもしれません。ホントは恥ずかしくもなんともないことなんですけどね。でも、どうしても恥ずかしくてダメだ、という人のために、いい方法を教えましょう。レジで一言「プレゼント用にしてください」と言えばいいんです。
とにかく、子供向けの小説は、読書慣れしていない人の入門用としてはうってつけです。欠点としては、ここを読んでいるあなたが、もし小学生だった場合には、このアイデアはまったく役に立たない、ということぐらいでしょうか。まあ、小学生でここを読むような人は、おそらく「本を読むのが苦手」なんて思ってないでしょうから、よしとしちゃいましょう。
そして、本を選ぶときに一番大切なことは、興味のある内容の作品を読む、ということです。なんとかいう賞を取った作品だからとか、人にすすめられたからとか、作者が有名だからとか、なんか聞いたことのあるタイトルの本だからとか。そんな理由で読む本を決めてはいけません。自分が読む本は、自分の感性で決めてください。書店に行って、とりあえず最初は「このタイトルどこかで聞いたことがある」とか「この作者の名前知ってる」とか「なんかおもしろそうなタイトルだな」とか、そんな理由でも良いのですが、目についた本を手に取って、少なくともパラパラとめくってみる。あるいは、帯やら裏表紙に書いてあるあらすじを読んでみるとか、あとがきやら解説やらを読んでみるとか。それで、なんとなくでかまわないのですが「おもしろそうだな」と思った本を読んでください。
慣れないうちは選ぶのも一苦労かもしれません。なんせ、書店には売るほど本が並んでますから。ってあたりまえですが。そのうち、なんとなくわかるようになってきます。
とにかく最初のうちは、自分で中を少し見て「おもしろそうだ」と思った本を読んでください。
で、もし途中で投げ出しそうになっても、我慢して読むことはありません。たかが小説です。途中で投げ出したからって、人生に大きな影響はありません。まあ、お金出して買った本だから、最後まで読まなきゃもったいない、と考える人もいるでしょうが。そういう人は、図書館を利用するとか、古本屋で買うとか、そういう方法で節約しましょう。図書館ってのは、なにも本が好きな人が行く所とはかぎらないんです。本を読むのが苦手だから、金出してまで本を読む気になれない、という人が行ったって、別に誰にも怒られやしませんから。
そして、これも大事な考え方なんですが、せっかく「おもしろそうだ」と思って読み始めた小説なのに、読んでみたらおもしろくなかった、という場合。結局途中で投げ出してしまった場合。そこで「選ぶのが下手なんだ」とか「やっぱり本を読むのは苦手だ」なんて考えないでください。おもしろくなかったのは、あなたのせいじゃないんです。それは、あなたをおもしろがらせることができなかった、作者のせいなんですから。
2000.06.04
最近は、E-MAILが市民権を得た関係からか、メールで長い文章を書くことのできる人がだいぶ増えたようです。まあ、携帯電話やPHSを使ったメールの場合には、長いといっても限度があるでしょうが、それでも「文章を書く(入力する)」という意味では、かなりの方が抵抗なく取り組めるようになっているのではないでしょうか。
ところが、そういう人でも相変わらず「文章書くのが苦手で」なんて言っていたりするわけです。えらく長いメールを書いたり、掲示板にガシガシ書き込みしているような人が、です。そういう人にとっては、メールや掲示板への書き込みと、「ちゃんとした文章」とは別物なんでしょうねぇ、きっと。
どこが違うのかは、実はわたしにはよくわからないのですが。なにしろわたし自身はあまり区別してませんから。<A HREF="../bbs/minibbs1.cgi?TYPE=Y">「なんでも掲示板」</A>あたりを見ていただくとわかると思いますが、そこにわたしが書いている文章と、この「小説のようなモノの書き方」や<A HREF="../essay/index.cgi">「エッセイのようなモノ」</A>にわたしが書いている文章とは、それほど違いはないはずです。ってことはひょっとして、メールや掲示板への書きこみと「ちゃんとした文章」とを区別している人から見ると、わたしの文章って、全部ちゃんとしていないのかもしれませんが。「人に読ませる文章なんだから、もっとちゃんと書けよ」と思われているのかもしれません。でも、それはそれでわたしの文章の特徴、ということもできるでしょう。と逃げておいて。
文章を書くのが苦手、といっている人の特徴として、いざ書こうとしたときに構えてしまう、というのがあるようです。「さあ書くぞ」と思ったとたんに、頭になんにも浮かんでこなくなる。「書こう」と思えば思うほど、書くべきことがどんどん消えていく。その結果、「俺にはやっぱり文章なんて書けないんだ」と思ってしまったりするわけです。
本来なら、日本語を喋れる人なら誰でも、いや、喋ることができなくても、日本語でものを考えることさえできれば、日本語の文章は書けるはずなんですけどね。まあ、少なくともひらがなぐらいは書けないとまずいでしょうが。少なくともひらがなさえ書ければ、頭に浮かんだことをそのまま文字にすることができるはずです。
「そんなこといったって、頭になんにも浮かんでこないんだよ」
という方もいるでしょう。でも、誰かと話しをしているときのことを思い出してください。独り言を言っているときでもかまいませんが。普通、よほどのことがない限り、会話を交わしているときに、いちいち「次はこれを言って。あ、むこうがこう言ってきたから、それにはこう答えて」なんて考えていないはずです。いや、実際には頭の中でそういう論理が働いて、その結果として会話を交わしているのかもしれませんが。でも、それも一瞬のことのはずです。
まあ、会話を交わしている時だって、一瞬頭が真っ白になって、何も思い浮かばないこともあるでしょうが。それはそんなにしょっちゅうあることではないでしょう。独り言を言っているときや、頭の中で勝手に想像しているときはなおさらです。書くときだって、本当は同じはずです。それがどうして、できなくなってしまうんでしょうねぇ。
書きたいことは山ほどあるのに、どう書けばいいかわからない、という場合もあるでしょう。書きたいことは頭の中にあるのに、それが文章にならない。良い文章が思い浮かばない、ということもあるでしょう。そういう場合はまず、「良い文章」という考えを捨てましょう。書くということは、話すのと違って、あとからいくらでも訂正することができるのです。普通に話しができるのならば、それ以上に書くのは楽なはずです。
文章にならない、というのも不思議なはなしです。少なくとも、話しをすることができるのならば、それは文章にすることができる、ということのはずですから。
じつはすべて、慣れの問題なのです。書くことに慣れる。これが重要なのです。
文章を書くのが苦手な人は、とりあえず慣れてください。慣れてしまえばどうってことありません。その第一歩として、硬い文章を書くのも、メールを書くのも違いはないんだ、ということを忘れないようにしてください。話すことと書くことも、それほど違いはないんだ、ということも忘れずに。むしろ、話しをするよりも、書く方が後からいくらでも訂正できる分、楽なんだ、と考えてください。
そしてもうひとつ。どうしても文章が頭に浮かんでこない、という人は、まず文章を書くのをやめてみるのもひとつの手かもしれません。おかしな話しかもしれませんが。
文章を書くのをやめて、とりあえず文章を「考える」だけにしてみてください。パソコンや原稿用紙やノートを前にせずに、頭の中だけで文章を考えてみてください。たぶん、頭の中で考えた文章は、浮かんでは消え、消えては浮かび、最初のうちは取り留めのないものになってしまうでしょう。同じ文章のつもりでもどこか違っていたり、違う文章を考えているつもりでも、同じになってしまったり。そんな状態になるでしょう。最初のうちは、それで問題ありません。そうやって、色々な文章を頭に思い浮かべてみてください。そうやって、話しをするのと同じように、文章を考える、ということに頭を慣れさせてやってください。
これは別に、わざわざ机に向かってやる必要はありません。電車の中とか、歩いている最中とか、退屈な会議の最中とか。まあ、ぼんやりしていて怒られたり、事故にあったりしても、わたしは責任を負いかねますが。
まあ、何事も無理せず、のんびりと。文章なんぞ書けなくたって、それでいきなり死んじゃうことはありませんから。
2001.01.10
お話し作りの方法でよくとりあげられるのが「三題話し」です。正確には「三題噺」または「三題咄」と書くようです。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、ちょいと説明しておきましょう。
字を見ていただければわかるように、これはもともと落語の寄席から始まったことです。資料によれば、文化元年に初代三笑亭可楽という人が始めたことだそうです。
やり方は簡単。高座に上がった落語家が、会場のお客さんから三つの「お題」を頂戴します。お客さんはみんな適当なことを言うわけですが、その三つの「お題」を使って、その場で落語を作るわけです。
もらったお題は必ず使わなければいけません。基本的には、お題の言葉はキーワードとして出てこなければいけないようですが、多少ひねったりするのはOKのようです。たとえば「帽子」というお題の場合、使うのが「シルクハット」でも「野球帽」でも構いません。ただし「麦わら帽子」というお題の場合には、それを「シルクハット」に変えてしまうことはできません。
ものによっては、三題噺で作り出された作品が、脚色されて後世に残っている場合もあるようですから、三題噺を軽く見てはいけないのです。
今では、小説やら漫画やらシナリオやらの、お話し作りの課題としても、この手法はよく使われます。たぶん、その手の学校なんぞでは、よくやってるんじゃないでしょうか。
落語家と違って、小説の場合にはその場で作りあげる必要はありませんから、そのぶん楽になるはずです。まあ、学校なんかでは、授業時間内に作らなければならなかったりするかもしれませんが。
また、落語の場合は、ある程度きちんと考えてからでないと始められないかもしれませんが、小説の場合は、とりあえず書き始めて後から手を加える、という手も使えますから、じっくり考えるなり、とりあえず書き出しちゃうなり、好きな方法が使えます。がんばって面白いお話しを作っちゃいましょう。
ではまずお題の決め方です。
お題の決め方には、ふたつの考え方があります。
まず一般的な「アットランダムに取り出したお題でやる」という通常のやり方です。ただ、お話し作りの練習をするという意味では、お題の出し方にも注意を払った方が、ためになるでしょう。
お題を自分で考えてしまうと、都合の良いものを持ってきてしまうかもしれません。できるだけいいかげんな三つが良いのですから、自分では考えない方が良いかもしれません。
誰かに出してもらうというのも手ですが、その場合も、一人に三つ出してもらうよりも、三人からひとつずつ出してもらった方が、むちゃくちゃになって勉強になると思います。
そういうことを頼める友達がいない場合には(笑)、辞書か何かを引っ張り出して来て、適当に広げたページの中からひとつ取り出す。それを三回やってお題を集めるというのが、一番よくあるパターンでしょうか。使うのは、辞書に限らず、雑誌でも何でもかまいません。
もうひとつのお題の出し方は、同じテーマのお題を三つ揃えるという方法。たとえば、政治ネタだけを集めた「IT革命」「構造改革」「総選挙」などというお題にした場合、おそらくありきたりな内容になりがちでしょう。あるいは、「トンボ」「麦わら帽子」「花火」なんてお題だと、どうしても夏休みから離れられなくなります。
それを意識して、わざと関連のあるお題を集めて、がんばってそこから離れてみる。政治関係のお題でも、政治とは関係のない話しは作れるでしょう。どう考えても夏休みを思い浮かべてしまうようなお題で、いかにして冬休みを舞台にしたお話しを作るか。それを考えることが、練習になるわけです。
あるいは、「政治ネタ」にしても「夏休みネタ」にしても、同じお題で内容の違うお話しを、いくつ考えられるかがんばってみる、というのも手です。そうやってお話しを作る練習をするわけです。
さてお題は揃いました。いよいよ肝心の「どうやってお話しを作るか」です。
まず紙を三枚用意してください。大きさはA4かB5程度でOKでしょう。新聞広告の裏でも構いませんが、ノートではない方が良いでしょう。あとで三枚並べて見ますから。
用意した紙の中央に、お題になっている言葉をひとつ書いてください。なるべく大きく。三枚の紙の中央に、三つのお題をそれぞれひとつずつ書いてください。
で、まずはひとつめのお題をじっとみつめて、頭に思い浮かんだことをその紙に書いていきます。書き方は自由なんですが、真中に書いたお題から矢印を引いて、頭に浮かんだことを書くと良いかもしれません。場合によっては、そこからまた別の発想が出てくるかもしれませんから、その場合は、順に矢印でつないでいけば良いわけです。
実はここでは、文字で書く必要すらないんです。頭に浮かんだイメージを絵にしちゃってもいいんです。文字で書いた場合にも「~か?」と疑問形にしちゃったり、「このネタはホニャラカという小説にあった」と書いてしまってもかまいません。とにかく、自分のやりやすいように、中央にあるお題から湧き出た発想を、自由に伸ばしていきましょう。
しばらくすると、ネタが尽きてきたり、疲れてきたりします。そうしたら次のお題に移りましょう。ひとつのお題に執着する必要はありません。なんにも出てこないなぁ、と思ったら、迷わず次のお題に進んでください。三つ目まで行ってしまったら、またひとつ目に戻る。いや、二つ目に戻ったってかまいません。あっちへ行ったりこっちを考えたり。とにかくひたすら、三つのお題から思いつくことを書き出していきましょう。
場合によっては、二つのお題が絡まって、ひとつの発想が出てくるかもしれません。その場合は、両方の紙にその発想を書いてください。
だとしたら、一枚の紙に三つのお題を書いてもいいんじゃないか、と思うかもしれませんが、そういうところで紙をケチったりしないでください。
一枚の紙にお題を書いてしまうと、それぞれが影響してしまう場合があります。この段階では、それぞれのお題同士を、あまり関連づけなて考えない方が良いのです。下手に関連付けてしまうと、発想の広がりが押さえつけられてしまう可能性がありますから。もちろん、複数の発想が絡み合って、また別の発想が出てくる場合もありますが、ここではそんなことを意識してはいけません。それはまた先の話しです。
それに、発想がどんどん広がって行った場合、一枚の紙では足りなくなったり、それぞれのつながりがわかりにくくなってしまうこともあります。
どのお題からもまったくなんにも浮かんでこない、という場合もあるかもしれません。
そういう場合は、無理をしないで一休みしましょう。窓から外でも眺めてみるとか、トイレにでも行ってみる。ただし、本を読んだりテレビを見たり、ゲームをやったりしてはいけません。他のことに熱中しないで、頭の中が空っぽになるような状態にしてあげてください。
それでもなんにも浮かんでこない、という場合。あなたの頭の中には情報が少なすぎます。普段からもっといろいろな情報を吸収するように心がけてください。材料を仕込んでおかないと、何も生まれてきませんよ。
とはいっても、三題話しはこなさなきゃいけませんから、なんとかしなきゃいけません。そういう場合は、辞書を引っ張り出して、お題になっている言葉やものを調べてみてください。国語辞典だけではなく、和英辞典や漢和辞典なんかも引っ張り出して、該当する項目や関連する項目を見ていきます。
知っているつもりの言葉や物でも、辞書で調べてみると意外な発見があったりします。また、説明文に出てくる言葉をさらに調べてみたり、前後にある言葉からなにか思いつくかもしれません。
なんにしても、この時点では、できるかぎりたくさんのイメージを搾り出す、ということを念頭に置いてください。
このあたり、落語と違って小説の場合は、じっくり時間をかけられるのでありがたいですねぇ。
さて、とりあえずそれぞれのお題に対して、たくさんの事柄が出てきたと仮定しましょう。そうでないと先に進めませんから。
実は通常は、このころには何らかのイメージが浮かんでいるはずなんです。あるシチュエーションだったり、シーンの断片だったり、決めのセリフだったり、何が浮かんでいるかは、その時によってさまざまでしょうが、きっと何か浮かんでいます。そのためにいろいろと書き出したんですから。
ここまでさんざん書き出してきたものは、それを直接使って何かする、ということはあまりないのです。じゃぁ何のためにそんなことしたんだ、ということですが。すべては頭の中を引っ掻き回すためだったんです。頭の中にあるいろいろな情報を引っ張り出して、そこからまた新たな情報を取り出す。
最初のお題だけでは処理できないイメージを、関連する別の情報で処理するために、頭の中にあるものを引きずり出す。そのために、片っ端から書き出したんです。
もちろん、そういう意味では、わざわざ書き出す必要はないかもしれません。慣れてくれば、頭の中だけでもできてしまうでしょう。でも、できるだけ紙に書き出してください。頭の中だけでやった場合よりも、絶対に多くの情報が出てきますから。
そうはいっても、ここまで来てまだ何も思い浮かばない場合もあるでしょう。そういうときは、もう一枚紙を用意してください。そして、まず今書いた三枚の用紙を並べて眺めて見るのです。縦に並べようが横に並べようが、三角形に並べようが、それは自由です。
ごちゃごちゃといろいろ書かれた三枚の紙を眺めて、それぞれの紙に書いてあることを関連づけてみます。同じ意味の言葉はないか。似たような音の言葉はないか。なにか関連するものはないか。逆に、まったく反対の意味になる言葉でもかまいませんし、全然関係のないものを無理やりくっつけてみてもかまいません。
さっきまでは基本的な三つの「お題」をベースにしてやっていたことを、今度はもっとたくさんのお題でやる、と思えば良いのです。なにしろ今度はたくさんのお題があるわけです。それを相互に組み合わせたりするわけですから、もっといろいろなことが出てくるはずです。
そこから出てきた発想を、新たに用意した紙に書いていきます。オヤジ第三段階ぐらいの駄洒落が出てきてしまうかもしれませんし、ちっともお話しになってくれないかもしれません。でも、多少無理があってもイメージ同士を混ぜてみてください。
ひょっとしたら、結局お話しは作れないかもしれません(笑)。お話しは作れないかもしれませんが、もしかしたら別の結果が生まれることだってあるんです。場合によっては、そこからとんでもない発明が生まれちゃう可能性だってあります。そうすれば、それはそれで大儲けできるでしょ(笑)
そもそも、この作業自体が頭の体操になっていますから、たとえ今良いアイデアが出てこなくても、この練習を繰り返すことで、アイデアが出やすい頭の構造になるのです。この手のことを何度もやっていると、そのうちわざわざお題を設定しなくても、何気なく目にしたことから、ふとアイデアが浮かんでくるようになります。頭の中が、そういう構造になっちゃうんですね。
言い換えれば「頭が良くなる」。
まあ、本当に頭が良くなるのか、良くなるとして、どの程度頭が良くなるのか、という点に関しては、わたしの保証の限りではありませんが。
さてこのようにして三題話しを使ってお話し作りの練習をする場合、お題になっているものが、ただ単にお話しの中に出てくる、というだけでは意味がありません。三つのお題が、できるだけストーリーに密接に関係するように努力してください。
たとえば、「メガネ」「月」「納豆」というお題だった場合に「メガネをかけた男が、納豆を食べながら月を見ていた」という出だしだけでは、面白くもなんともありません。とても後世に残るお話しにはなりませんね。いや、そこから始まって、お話し自体は傑作が残るかもしれませんが「三題話し」のできとしては最低でしょう。「月→満月→狼男」という発想をして、「視力の衰えてしまった狼男が、満月の晩に変身してもメガネをかけたままだったら……」というような内容を考えることだってできるはずです。いや、これが良い見本という意味ではなく……。だいたい「納豆」がどこにも入ってませんし(笑)
でも、もしこの「メガネをかけた狼男」の設定を面白いと思ったのなら、たとえ「納豆」がうまくからんでくれなくても、すぐにそのアイデアは捨てたりしないでください。しばらくいじくりまわして、なんとかして「納豆」をお話しにからめる方法を考えてみましょう。それこそがお話し作りの練習なんですから。
いや、なにもこの「メガネをかけた狼男」で話しを作れ、といっているわけじゃありませんよ。これはあくまでも例ですから。自分でいろいろと考えているときに「二つまではうまくつながるのに、最後のひとつがうまく入らないなぁ」という状況は、よくあることだと思います。それでもしばらくは、そのネタをいじくりまわしてみる。いじくっていじくって、もうこれ以上どうしようもない、というところまでいじくって、それでもうまくできないということになったら、しかたがないので諦めましょう。
でも、そこで浮かんできたアイデアは、三題話しとしては完成しなかったかもしれませんが、普通に小説のネタとしては充分使えるものかもしれません。捨ててしまわずに、どこかにメモしておくことをおすすめします。
そして、「メガネをかけた狼男」だと納豆とうまくからまないけど「メガネをかけたかぐや姫」じゃどうだ?とか、いっそのこと、満月じゃなく納豆で変身する狼男ってのはどうだ?とか。バカな発想でもかまいませんから、ドンドンしていってください。
なんにしても、三題話しで肝心なことは、お題がただ出てくるだけでなく、ストーリーにちゃんとからんでいることです。
もちろん、常に完璧な結果にはならないでしょうが、練習をしているときには妥協せず、可能な限り完璧を目指してください。まあ、たかがお話し作りですから、そこまで力む必要もないんですけどね。
さて、三題話しを使って、最終的にどこまで書くかという問題もあります。
お話し作りの練習ということだけだったら、あらすじを考えるだけで構わないかもしれません。そうやっていくつもあらすじを考えることで、お話し作りの力が鍛えられていきますから。
でも、せっかくお話しを考えたのなら、ちゃんとした小説にしてあげましょうよ。いや、ちゃんと「小説してる」かどうかは別にして(笑)。とりあえず、あらすじだけではなく、小説の体裁を整えてあげましょう。
たかだか三つのお題を盛り込んで作ったお話しですから、そんなに長くなることはないでしょう。原稿用紙五枚から十枚というところだと思います。もちろん、もっと長くすることもできるでしょうが、練習としてはあまり長くしない方が手ごろかもしれません。
せっかく考えたお話しですから、可能な限り、ちゃんと小説の形にしてあげましょう。
仮に小説の形にしないとしても、せめてあらすじを文章にしてください。小説を書く場合の基本は、とにかくまず書く、ということですから。
そうそう。
この三題話しの発想で使った三枚あるいは四枚の紙は、できれば残してください。
後で見直したときに、自分の発想に呆れるかもしれませんし、驚くかもしれません。時間がたつと、また別の発想が出てくる場合だってあります。そういうことがまた、何かの役に立つこともあるのです。
2001.12.29
小説の公募の応募要項を見ると、たいていは「×枚程度の梗概をつけること」と書いてあります。指定されている梗概の枚数は、本編の規定枚数によって違うでしょうが、ほとんどの場合は三枚から五枚程度。長い場合でも十枚ぐらいでしょうか。
「梗概」は「こうがい」と読んで、平たくいえば「あらすじ」のことです。ただし、ここでいうあらすじとは、文庫本の背表紙などに書いてあるような、「さて××の運命は!」とか「名探偵の推理が冴える!」とか「やがて衝撃の展開に!」というような、途中で終わっている、読者に期待を持たせるためのあらすじではありません。結末まできちんと書かれたものでなければならないのです。推理小説ならば、誰が犯人で、どんなトリックで、ということまできちんと書かれている必要があります。
なぜそんなものをつける必要があるか、というと、それはもちろん審査を楽にするためですね(笑)
もちろん、応募している側としては、あらすじなんかで決められてたまるか、という気持ちもあるでしょうが、選ぶ方としても、はっきりいってろくでもない話しばかりを何本も読まなきゃいけないんだから、少しぐらいは楽させろ、という気持ちがあるでしょう。いや、ホントにそういう理由かどうかは知りませんが(笑)
まあ確かに、読者が初めて書店でみかけた作家の小説を、読むか読まないか決める要素のひとつに、あらすじで決める、というはあるはずですから、その選考のしかたはそれほど間違っちゃいないはずです。
あらすじが面白くない作品は、本編も面白くない可能性が高いでしょう。中には、あらすじは面白そうだったのに、本編がちっとも面白くない、ってな作品もあるでしょうが、そういう作品はあらすじつけなくても面白くないはずですから、あらすじのせいにしちゃいけませんね。
また公募の場合、あらすじを書かせることによって書き手の能力がある程度わかる、ということもあるのだそうです。ここではそのあたりも含めた練習の方法を紹介する予定ですが、応募する場合のあらすじについて、もう少しお話ししておきましょうか。
とはいっても、わたしはその方面の専門家ではありませんし、応募したこともありませんから、絶対に正しいかどうかはわかりません。気になる方は、どこかできちんと調べた方が良いでしょう。
まず、基本的には読み物としての体裁になっていなければいけないようです。つまり、箇条書きなんかじゃいけない、と。もちろん、句読点は一文字分使うだの、段落が変わったときに一文字あけるだのといった原稿用紙の基本的な使い方もきちんとしていなければいけないでしょう。梗概の規定は三枚だけど、とても三枚に収まりきらないから、という理由で、改行なし句読点なし、なんてぇあらすじは書いちゃいけない、ということです。
また、本編は一人称でも、梗概は三人称で書かなければいけない、という噂もあります。このあたりは本当かどうかわかりません。
あとは、最初にも書いたとおり、エンディングまできちんと書くこと。
このぐらいでしょうか。
が、今回ここで話題にしたいのは、実は公募のときの梗概の書き方ではないのです。
あらすじを使った練習方法というのがあるのです。それを紹介します。
やり方はこう。
まず、好きな小説を用意します。自分で書いた作品でなくて構いません。というか、自分で書いた作品じゃない方が良いかもしれません。長編でも構いませんが、先のことを考えたら短編の方がよいでしょう。
で、好きな小説ですから、当然内容はご存知のはずでしょうが、もう一度きちんと読み直してください。そして、お話しを頭の中に叩き込んでください。お話しを頭にしっかり叩き込むつもりで読み返してください。
頭の中に叩き込むのは、お話しだけで結構です。細かい描写まで覚える必要はありません。ましてや丸暗記なんてする必要はありません。というよりも、そこまでしないようにしてください。やれっていっても無理か(笑)
お話しは叩き込めましたか?
では、その小説のあらすじを書きましょう。作品を手元に置いて、本をパラパラめくりながら書くのではなく、自分の頭の中に残っているお話しを、そのまま文章にしてみてください。好きな作品を選んだはずですから、そのぐらいはできますよね。
原稿用紙三枚から五枚ぐらいで。長編だったら十枚ぐらいは必要かもしれません。
あらすじを書く場合の注意としては、それほど多くのことはありません。公募に使う梗概の書き方とほとんど同じ。
大切なことは、あらすじとして必要な部分と不要な部分をしっかりと見極めること。本文に書かれていることでも、あらすじにまで書く必要のないことは、山ほどあります。というより、本文に書いてあることを、何も削らずにすべて書いてしまったら、あらすじになりませんね(笑)。
逆に、本文ではあっさり流している部分が、実は非常に重要な部分、ということもあります。そういう場合は、そこをきちんと書いてください。
どこかに伏線が張ってあるかもしれません。それもきちんと書いておきましょう。ただし、「これが伏線」などと書いてはいけません。可能な限りお話しとして書くように心がけてください。
気をつけることはこのぐらい。
もし、好きな小説が思いつかないという方がいらっしゃいましたら、一日も早く好きな小説を見つけてください。
はっきりいって、好きな小説のひとつやふたつ、すぐ出てこないような場合には、いくら「のようなモノ」とはいえ、小説を書くのはかなり困難なのです。まあ、場合によっては「俺が読みたい小説が世の中に存在しないから、俺が自分で書くんだ!」という方もいらっしゃるでしょうが、そういう方はこんなサイトでウロウロしているはずがありませんね。さっさと書いてさっさとどこかに発表しているはずです。
それでも、どうしても好きな小説がない、という方もいらっしゃることでしょう。うちはそういう方も救済しちゃいます。なにしろ「ド素人によるド素人のための」ですから。
好きな作品が思い当たらないという方は、毎度おなじみ有名なむかしばなしや童話を使いましょう。桃太郎でも浦島太郎でも、シンデレラでも白雪姫でも。あるいはマンガでもかまいませんし、映画でも結構です。ただ、マンガや映画は映像で見せる部分が多いジャンルですので、まったくの「ド素人」が小説用のあらすじに直すのには、もしかしたら適さないかもしれません。
あと、むかしばなしや童話を選んだ場合、気をつけなければいけないことに、一般に知られているその物語が、すでにあらすじレベルの内容でしかない場合もある、ということです。桃太郎や浦島太郎は、通常は絵本レベルでしかみなさん知らないでしょうから(わたしも知りません)、それをまたあらすじに直そうとすると非常にきついことになります。
その場合には、かまいませんから、知っているお話しをそのまま書いちゃってください。
ひょっとすると、みんなこのあたりから練習した方が良いのかもしれません。つまり、既存のむかしばなしや童話を、何も見ないで書く、という練習を。でも、それだとあまり面白くない可能性がありますし、小説のようなモノを書く練習っぽくないでしょ(笑)
だからまあ、とりあえずは好きな作品のあらすじを書いてみることにしましょう。
好きな小説にしろ、むかしばなしや童話にしろ、それをきちんと三枚から五枚のあらすじにしてください。あ、十枚の場合もあるって言いましたっけ?
このあたりの枚数の加減は、ちょいと微妙な問題かもしれません。とりあえず、自分の頭で「これだったら五枚ぐらいかな」とあたりをつけて、それにそって努力してみましょう。途中で五枚じゃ足りないと気が付いても、基本的には枚数を増やすのではなく、なんとかして最初に決めた枚数内に収める努力をしてください。それも練習です。
逆に最初に想定した枚数に満たない場合はどうするか。これは実はそこまででやめちゃっても構いません。ただし、十枚を予定していたのに九枚で終わってしまった、という程度なら問題はないでしょうが、十枚を想定していたのに二枚で済んでしまったとしたら、これはかなり問題がありますね。枚数の想定のしかたに問題がある、ということです。お話しの全体量の把握と、それをあらすじとして言葉に直したときの文字数の換算がうまくできていない、ということです。これはまずいですね。
これは正直いって、ある程度の訓練が必要になると思います。何回か練習を重ねるうちに、感覚がつかめるようになるはずですから、くじけずに練習してみてください。
いきなりうまくやろうったって、天才じゃない限り無理です。って、いきなりうまくいったから自分は天才なんだ、なんて思い込んだりしないように(笑)
あらすじが完成したら、それを印刷しましょう。たぶん、ほとんどの方がワープロやパソコンで入力したでしょうから。もちろん、手書きの方は印刷しなくて結構です。って、あたりまえか(笑)
このとき、かならず縦書きにして印刷してください。そこに何の意味があるのか、ということは考えずに。まあ、日本語で小説を印刷物として出す場合は、基本的に縦書きなんだ、と考えておけばよいと思います。
ですから、手書きの方も必ず縦書きで書くようにしてください。
で、印刷したものを読んでみてください。
どんなお話しなのかは、すでに知っているはずですが、それでもきちんと読んでください。そのあらすじを読んで、本編を読んでみたいなぁ、とおもいましたか?思いますよね。なにしろ好きな小説のあらすじなんですから。
もし、あらすじを読んでも本編を読んでみたいなぁ、と思わなかったら、それは誰がどう考えても、あなたが書いたあらすじが悪いんです。だって、自分の好きな小説のあらすじのはずなんですから。読みたくならないはずはないんです。
あらすじを書く練習の最初の目的はここにあります。つまり、面白いはずのお話しを、面白いままに要約する、ということ。実はこれが結構難しい。でしょ?
これは逆にいうと、自分が考えついたお話しをきちんと要約する能力になります。要約するということは枝葉をそぎ落とすということです。きちんと要約できるということは、全体をきちんと把握できている、ということになりますし、余計な部分を削り取った結果、お話しのバランスだのおかしなところだのがはっきり見えてくるんです。
でもまあ、ここではそんなことはあまり気にする必要はありません。とりあえずあらすじです。あらすじはあくまでもあらすじです。粗いんです。筋だけなんです。多少面白くなくなっても気にしないことにしましょう。って、言ってることがコロコロ変わってますが。
あらすじを書く練習は大事なことだけれど、今はとりあえずそこまで深く考えなくてよい、ということです。
いまの練習では、とりあえずあらすじから大まかなストーリーがわかれば充分。プラス、伏線だとか、ストーリーの流れに必要な最低限の要素が入っていれば、少なくともここでは問題ありません。場合によっては、登場人物の名前が明記されていなくても、これから先の練習には問題ありません。
とはいっても、練習時にはちゃんと必要な要素はすべて決めなきゃいけないんですけどね。練習で手を抜くと、本番でも手を抜く癖がついちゃいます。練習ではうまくできたのに、本番ではうまくいかない、なんてぇことは世の常ですから。練習は本番以上に気合を入れてやりましょう。ううむ。難しい。
ここでやりたいことは、とりあえず既存のお話しのストーリーラインを明確にする、ということ。贅肉をこそげ落として、骨格だけにしてしまう。もちろん、やればもっとこそげ落とすことはできますが、それは別の練習になります。ここではとにかく、ストーリーを明確にすることを重点にあらすじを書いてください。
書いたあらすじは、ちゃんとお話しになっていますか?箇条書きではなく、きちんと読み物になっていますか?
まずはそのあたりの練習です。うまく読み物になっていないあらすじは、あらすじとしては失格です。
もし、なんらかの公募に自分の書いた作品を応募するのであれば。そしてその公募であらすじをつけることが義務付けられているのであれば。あなたが書いたあらすじは、おそらく本編よりも先に、他人の目に触れることになるのです。どんなにおもしろいお話しを考えついたとしても。それをどれほどうまく作品にできたとしても。もし、あらすじがいいかげんで、本編のおもしろさをきちんと伝えられていなかったら、場合によっては本編を読んでもらえない可能性だってあるのですから。
あらすじを書く練習をしましょう。
実は、あらすじを書くのは、本編を書くよりも難しいのだ、という意見もあるようです。細かい描写や装飾ができないぶん、ストーリーラインがかなりはっきりしてしまいますから。
ということは、既存のお話しのあらすじを書く練習をすることによって、かなりの練習になる、ということです。贅肉を削ぎ落とすことによって、「なぜ自分はこの作品をおもしろいと思うのだろう」ということの分析ができるようになるのです。それはつまり、ストーリー自体の面白さがどこにあるのかを分析することにつながります。そこから、面白いお話しというのはどういうものなのか、ということを考えていくことができるようになり、ひいては面白いお話しを考える練習にもなるのです。
まあ、うちではそんな難しい話しはたぶんしませんが(笑)
とりあえず、既存の作品のあらすじをいくつか書いてみて、あらすじを書く練習をしてみてください。
でもここでは、あらすじを書く練習をするためだけに、既存のお気に入りの小説のあらすじを書いてもらったわけではありません。
ここからはちゃんと「小説のようなモノ」の書き方の練習です。
やることはもうわかりますよね。
自分で書いたあらすじを元に、小説を書くんです。もちろん、既存の小説のあらすじだったり、昔話のあらすじだったりするわけですから、それをそのまま発表するわけにはいきません。あくまでも練習用の作品です。でも、小説を書く、ということの練習には充分なるはずです。
特に、既存の、自分のお気に入りの作品のあらすじから、自分なりの小説を書くというのは、やってみると実は結構面白い反面、かなりしんどい作業になると思います。
なにしろ、お気に入りだった作品が、自分の手で文章化した途端に、駄作になっちゃったりするんですから(笑)
それでもがっかりする必要はありません。なんせ、敵はプロですから。こっちが勝てる要素はほとんどないんです。元の作品よりもおもしろくしよう、なんて思う必要はありません。そんな努力は無駄です。だって、いくらおもしろい作品ができたって、そのまま発表するわけにはいかないんですから。
もちろん、だからといっていいかげんに書けばよい、ということではありませんよ。ちゃんと、自分なりに真剣に、可能な限りおもしろい作品を書くようにしてください。
よく、小説の練習として、既存の小説をまるまる書き写す、とい方法のが紹介されています。うちのサイトでも紹介したかな?覚えてないんですが(笑)
実はこの「既存の小説をまるまる書き写す」という練習方法、どの程度効果があるのか、ちょいと疑問なんです。わたしとしては、そんなことをするよりも、まず既存の作品のあらすじを書いて、それをもとに自力で作品を書く方が、効果があるんじゃないか、と思ってます。
まあ、この「既存の小説をまるまる書き写す」という練習方法は、句読点の打ち方だとか、改行のしかたといった、どちらかというと文章の書き方の練習になるようですが。
それはそれとして、あらすじを元に小説を書いていると、場合によっては、「こうした方が面白くないか?」と思うこともあるかもしれません。そういう場合、そっちの方向に変えちゃうのも手かもしれませんが、練習としては、きちんとあらすじの通りに話しを進めてください。
とにかく、まずはあらすじの通りにお話しを進めて、最後まで書く練習をしてください。それで一本書き上げれば、それはそれで達成感が沸いてでるはずです。
まずはこの「達成感」を感じてください。
2003.11.23