せっかく小説のようなモノを書くのですから、できれば中味でも勝負したいですよね。読んでくれた人から「面白かったよ」と言ってもらいたいものです。
ちょっとしたアイデアの見つけ方から、内容をもっともらしくするための姑息なテクニックまで、色々と紹介していきたいと思います。
まあ、ここを読んだからといって、面白い作品が書けるようになるか、というと、それはそれで疑問の残るところですが。そこはそれ、「こんな考え方ややり方もあるんだ」という参考程度にしていただいて。
目次 |
書きたいお話しがもう決まっている場合は、ここは読まなくて結構です。どんなお話しを書こうか決まっていない、という人だけお読みください。また、話しの展開上、「セブン」という映画の結末をばらしています。「セブン」をまだ見ていなくて、これから見ようと思っている方も、読まない方がいいと思います。
とはいっても、ネタの集め方を説明するのは、少し難しいんですが....
以前、「グレムリン」という映画がありました。普段はぬいぐるみのようにかわいい生き物が、飼育するときの三つの約束をやぶると、恐ろしいモンスター(グレムリン)に変わる、というストーリーの映画です。
この映画の脚本家は、この脚本を書いた当時はまったく売れていなかったそうです。安アパートに住んで、こつこつと脚本を買いては、プロデューサーに売り込みに行っていたそうです。
ある夜、その脚本家がベッドで寝ていると、ねずみが指をかじったのだそうです。
これが、映画「グレムリン」の元ネタになったのだ、ということです。
なんでだ?と思われることでしょう。
わたしもそう思います。なぜ、ねずみに指をかじられただけで、あの映画の脚本ができたのか、わたしにも謎です。
このホームページの「小説のようなもの」の中にある、わたしが書いた「間違い電話」という作品のネタは、その解説にも書いてある通り、現実の間違い電話でした。
子供からの「今から行くからね」という間違い電話が、留守番電話に残されていて、わたしがそれを聞いたのは、仕事から帰って来てからですから、夜の九時とか十時でした。そのメッセージを聞いたわたしは、
「ホントに来たら、恐いよな」
と思いました。それだけです。それだけで、小説のようなものを書いちゃうんですから、いい度胸をしてると思いますが、「グレムリン」の脚本家も似たようなものでしょう。
映画を見たり、小説を読んだりしていて、「わたしだったらこうするな」と思うこともあります。
お話し作りのネタにはしませんでしたが、わたしだったらこうする、という例をあげてみましょう。
「セブン」という映画がありました。
キリスト教の教えの中の七つの大罪にのっとって、連続殺人が行われる、というストーリーです。主人公はふたりいて、ひとりは年配の黒人刑事、ひとりは、若い白人の刑事で、この若い刑事の方が、結構怒りっぽい。七つの大罪に「怒る」ことの罪、というのがありますから、これはもう、この刑事も犯人のターゲットになるな、ということは予想がつきます。
で、この刑事には奥さんがいて、やがて子供ができたことがわかります。
犯人は、この奥さんを殺し、首を切って若い刑事に送り付けます。それをみた若い刑事は、逆上して犯人を撃ち殺してしまう、というエンディングでした。宣伝では、衝撃のラスト、となっていましたが、じつはわたしには、あまり衝撃ではありませんでした。
わたしが「セブン」を見たときに思ったことは、
「あの、奥さんの首と思われたものは、実は犯人が巧妙に作った偽物で、犯人を射殺したあとに、若い刑事の前に奥さんが現れ、刑事は犯人を射殺してしまったことにショックを受ける、というラストの方がおもしろいんじゃないか」
ということでした。
これは、エンディングを変えただけですから、お話し作りのネタにはなりませんでしたが、エンディングを変えるために、お話し全体を変える必要も出てきます。そうなればもう、それは自分が作ったオリジナルのお話し、ってことになるでしょう。
お話しのネタなんて、そんなもんです。
お話しを作るのが先か、登場人物を作るのが先か、という問題がありますが、真剣に小説を書こうってわけじゃないんですから、気楽にいきましょう。
魅力的な登場人物を考えだしたら、その人物を動かすお話しを考えたくなるものです。
どんな登場人物が魅力的か、という点になると、それはもう個人の趣味ですから、千差万別いろいろあるでしょうから、ここでの説明ははぶきます。
で、登場人物を考えるときに、一番楽なのは、既存の登場人物を利用してしまう、という手です。
シャーロック・ホームズという有名な探偵がいます。もちろん、架空の人物です。作者のアーサー・コナンドイルという人はとっくの昔に亡くなっていますが、今でも時々新作が出ることがあります。シャーロック・ホームズを好きな作家が、ホームズを借りて作品を書いているわけです。
世の中には、版権だとか著作権というものがあって、実は勝手にそういうことをしてはいけないんですが、プロの場合はちゃんと許可を取ってやっているはずです。自分の趣味で小説のようなモノを書こうという場合、わざわざ許可を取る必要はありません。ただ、それで金もうけをしようとしてはいけませんので、念のため。
ホームズをそのまま使う場合もありますが、自分流に少し変えて使う場合もあります。
パロディなんかもそうですが、そうではなく、自分流にアレンジして、完全に別ものにしてしまう場合です。
たとえば、「ルパン三世」というアニメがあります。元々は漫画なんですが。
これは、フランスのモーリス・ルブランという人が書いたアルセーヌ・ルパンという泥棒の孫、という設定です。おそらく、最初はアルセーヌ・ルパンのイメージが裏にあったのでしょうが、今ではまったく別物です。どこがアルセーヌ・ルパンの孫なんだ?と思ってしまうこともあるほどです。いや、それ以上に、すでにルパン三世として、完全に独立しています。
で、このルパン三世が、お話しの作りやすいキャラクターなんでしょうね。
いろんな人のいろんなルパン三世があります。
そこで、自分なりのルパン三世のお話しを作ってしまうのも、手です。べつに、ルパン三世でなくても、セーラー・ムーンでもドラゴン・ボールでもかまいませんが。
あ、このあたりからは、「お話しの作り方」になっちゃいますね。
登場人物の作り方に話しを戻しましょうか。
たとえば「ルパン三世」の場合、主な登場人物が五人います。それぞれ魅力的なキャラクターで、ファンも多いようですが、そこに、自分が考え出した六人目を入れてみるのも手です。もっとも、「ルパン三世」の場合には、五人が五人とも印象的なキャラクターですから、それに太刀打ちできる新人を投入するのは、至難の技かもしれません。
そこで、この五人の性格を一度まぜあわせて、再度分離し直す、という手を使って、まったく別のキャラクターたちを作ってみるのはどうでしょう?
キャラクターの作り方なんて、こんなもんでいいんですよ。
登場人物の作り方には、もうひとつ方法があります。
自分を含めた自分のまわりの実在の人物を、小説のようなモノの登場人物にしてしまう、という手です。
べつに、性格をそのまま利用する必要はありません。名前だけ使わせてもらうとか、性格の一部を誇張するとか、いくらでも手はあります。
ただ、この手を使う場合、気をつけなければいけないのは、ヘタをすると名誉毀損で訴えられる可能性が、なくもない、という点です。まあ、誰にも見せないで、自分一人で楽しむ分には、多分大丈夫でしょうけど。
で、このやり方のいい点は、自分を主人公にして、好き放題ができるってことです。嫌いな奴を殺そうが、好きな相手と結ばれようが、すべて作者であるあなたの思いのままです。しかも、自分の性格を自分の理想通りにしてしまうこともできます。性格だけでなく、外見だって、タダで整形手術できるようなもんですから。
名前だけ自分の名前を使って、あとは自分の理想を主人公にして....
気をつけないと、書いてる自分が暗い性格になりますので、注意してください。
お話しの作り方にも、「登場人物の作り方」と同じような、卑怯な手があります。
ひとつは、既存のお話しをそのまま、自分の手で書き直す、というものです。
映画やドラマ、漫画なんかを小説にすることを、ノベライズといいますが、これがそうです。この場合、お話しを作る必要はありません。お話しはすでにありますから。
ただ、映画やドラマや漫画は、絵で見せるお話しですから、それを文章にしなければなりません。でその段階で、書き手の勝手な想像や、イメージを膨らましていくのです。
もちろん書き直す元ネタは、小説でもかまいません。
お気に入りの小説を、自分の言葉で書き直すのも、おもしろいかもしれません。
ただ、どの場合にも気をつけなければいけないのは、それをそのまま発表することはできない、ということです。そんなことをしても、「盗作」と言われるか「二番煎じ」と言われるか、どちらかです。
そうならないようにするために、別の手があります。
「ネタの集めかた」でも少し話しましたが、既存のお話しの一部を借用して、その前後を自分で作り出す、という手です。
これは、うまくやれば傑作が生まれる可能性もありますが、下手をすれば「盗作」「二番煎じ」といわれてしまう危険があることに、変わりはないんですが....
他にも方法はあります。
実際にあったことを、そのままお話しにしてしまうのです。
これは、「ノンフィクション」とか「ドキュメンタリー」と呼ばれています。こういう言い方をすると、なんだかすごい内容のような気がしてきますが、要は「事実をそのまま書く」ってことですから、中味はどうでもいいんです。朝起きてから夜寝るまでにあったことを、日記の代わりに小説風にしてしまえばいいんですから。
で、これも、事実をありのままに書く必要はありません。
「ここはこうした方がおもしろいや」
と思ったら、じゃんじゃん変えてしまえばいいんです。それは、ネタ集めに近いものでもあります。そこから発想が広がっていって、事実とはまったく違う、あなたが作り出したお話しができるのです。
登場人物の作り方では、既存のおはなしの登場人物や、自分のまわりの知り合いたちを使う、というはなしをしましたが、他にもひとつ手があります。
それは、既存の有名人をキャスティングして、自分が映画監督になったつもりでおはなしを作ってしまう、という方法です。
この方法ならば、シュワルツェネッガーとスタローンの共演だって簡単にできます。もちろん、すでに他界している有名人を使うこともできます。
この方法でわたしが考えたのが、「平成無責任男」。
あのクレージーキャッツの「無責任男」シリーズを、現代の有名人で作ってしまおう、というわけのわからない企画です。
で、だれが出演するか、というと、これはもうSMAPしかないんですよ。歌ができてお笑いができて、人気がある。途中でひとり抜けたってとこも、SMAPは平成のクレージーキャッツとしていけるんではないか、と思うんですよ。
貫禄が少し足りないような気もしますが、中居(字、あってる?)がハナハジメ。メインを張る木村が植木等。年齢としては一番若い香取が谷啓なんですが、性格を重視すると草彅が谷啓ってとこで。渋めのくせに充分間抜けなこともこなせる、という点で稲垣が犬塚弘。で、残った香取が桜井センリ。
これで、もちろんクレージーキャッツの面々もゲスト出演します。
会社の社長(結構おちゃらけ系)が植木等。「釣りバカ日誌」とかぶっちゃうんですが、課長あたりに谷啓。あとは適宜ってことで。
どこかの映画会社がこの企画買ってくれないかなぁ。
しまった、これじゃあただのコラムだ。
1997.12.25
お話しの作り方のその他の手として、映画や小説の予告や宣伝文句を利用する、というのがあります。誰か小説家の人もやっている手らしいのですが、その人いわく「これは、量産しなければならないプロが、最後の手段として使うもので、これといった締め切りのない素人はやるべきではない」ということなのですが、それはちゃんとした小説を書いて小説家を目指そうという人に向けた言葉で、とりたててプロになろうという考えもなく、なんとなく「小説のようなモノ」を書こうという場合には無視してもいいでしょう。
さてやり方です。
たとえば、小説の帯や裏表紙なんぞに、その作品のあらすじが書いてあります、もちろんこれはその作品のとっかかりだけで、最後まで書いていないどころか、真ん中まですら書いていないことが多いのはご存知の通りです。ってことで、そのあらすじをもとにして、自分なりに「きっとこんな話しだろ」と想像するわけです。最初のエピソードだけ使用して、他のお話しを作ってしまうような感じになりますから、<A HREF="howto.cgi?TYPE=Y&NO=04-001">「ネタの集め方」</A>で紹介した「エンディングを自分の気に入ったものに変えてしまう」というやり方や<A HREF="howto.cgi?TYPE=Y&NO=04-004">「お話しのようなモノの作り方」</A>で紹介した「他人の作品の一部を使って前後を作る」という方法に、少し近いかもしれません。ただ、あらすじを利用する方法というのは、お話しの全体の内容を、(なかば意識的とはいえ)そうとは知らずに借用するのだ、ということでしょうか。
登場人物の名前なんぞは、わかる場合もありますし、わからない場合もあります。わからない場合には、自分で勝手に登場人物の名前をつけてしまうのはいうまでもありません。
場合によっては、できあがったお話しが、もとネタとして使用したあらすじのお話しとまったく一緒になってしまう可能性もありますが、可能性としてはほとんどゼロに近いでしょう。もしまったく同じになってしまった場合は、もとネタを書いている作家のレベルが素人の自分と同じなんだ、と嘲笑うか(笑)、自分のレベルがプロと同じぐらい高いんだ、と満足するか。どちらにしても、もとネタにした作品の内容はちゃんと確認しておきましょう。まあ、普通は敵はプロですから、こっちが考えた内容の方が面白くないことの方が多いんですけどね。
そしてもし、もとネタとほとんどもしくはまったく同じ内容になってしまった場合、残念ながらその作品を小説にしたとしても、それを発表するわけにはいきません。<A HREF="howto.cgi?TYPE=Y&NO=04-004">「お話しのようなモノの作り方」</A>でも説明した通り、「盗作」「二番煎じ」のそしりを受けることは間違いありませんから。
もちろん、もとネタとして使用するあらすじは、自分が好きなジャンルや興味のあるジャンルを選んでください。その方が話しは作りやすくなりますから。そうは言っても、すきなジャンルがアクションものだったりする場合、あらすじはほとんど役にたたなくなります。そういう場合は二番目や三番目に興味のあるジャンルに行くしかないかもしれません。ただ、全然関係のないジャンルの作品でも、あらすじだけ取り出せば、他のジャンルに流用することは可能でしょう。
小説や映画ではありませんが、麻雀漫画といジャンルがあります。あれの不思議なところは、ほとんどすべての問題の解決に、麻雀を使うということです。たとえば、老舗の跡継ぎ問題とか、多額の借金の解決とか、夫婦の仲がうまくいっていないのまで、麻雀で解決してしまいます。で、麻雀漫画の場合、キーになるのは麻雀の展開であって、麻雀勝負をはじめる理由になった問題は、ほとんど付け足しのような感じになります。そこで、問題の解決方法として、麻雀の代わりにカンフーなんぞを持ってくると、昔のジャッキー・チェンの映画になります。料理で解決すれば、「クッキングパパ」かなんかになるでしょう。セックスで解決する話しにすれば、ポルノ映画になります(笑)だから、そこにべつの何かを持ってくるだけでも、違うジャンルの話しってのはできちゃうものなんです。ただ、この場合、発表できるかどうかはギリギリの線かもしれませんが、あらすじがにかよった作品なんて、世の中にゴロゴロしてますよねぇ。ですから、発表しようという場合には、半分は賭けのつもりで発表した方がいいかもしれません。
1998.03.03
書くための練習のようなモノの中で、描写の練習方法を紹介しました。駅前の光景を片っ端から言葉にしていく方法や、まわりの人を観察する方法です。この練習を繰り返すことによって、文章を書くときに、かなり細かい部分までイメージできるようになったと思います。
まだそこまでいってない?そういう場合は、もっと練習を繰り返してください。まあ焦らずに、のんびりと。
ここではとりあえず、細かい部分までイメージできるようになったことにして、話しを先に進めます。もっとも、ここでいっている「細かいイメージ」というのは、見た目の描写に関することに限りません。とりあえず「書きたいこと」と考えていただいて結構です。主人公の性格や外見でも、その行動や考えていることでも、まわりの風景でも。単に作者として、読者に向かって訴えかけたいことでもかまいません。とにかく「何か書きたいこと」だと思ってください。そういうもので、頭の中がいっぱいになっている場合のはなしです。
そういう意味では、これは必ずしも「小説のようなモノ」の書き方に限ったことではないかもしれません。とにかく、言葉で何かを伝えようと思ったときのことだと考えていただいてもいいかもしれません。
さて、頭の中に、かなりたくさんの「書きたいこと」が詰まっているとしましょう。あれも書きたい、これもいいたい。これをわかってもらわなきゃいけない。これだって重要だ。と、いろいろなことが、頭の中に渦巻いているとしましょう。その場合でも、書きたいことのすべてを文章にするのは避けてください。文章にするのは、頭の中にあるもののうち、80%ぐらいまで。場合によっては50%とか30%ぐらいでもいいかもしれません。とにかく、全部吐き出したりしないように、充分注意してください。
もし頭の中のイメージをすべて投げつけてしまうと、描写の嵐で読者が面食らってしまうのです。
第一、思い付いたことを、かたっぱしから言葉にしていったのでは、格好よくありません。
たとえば、登場人物の描写です。まともな「小説の書き方」系の本を読むと、登場人物の履歴書が書けるぐらいじゃないといけない、と書いてあることがあります。年齢や身長体重はもちろんのこと、外見の細かい部分にはじまって、性格や生い立ち、出身はどこで、どんな子供時代を過ごして、なんてことまで、頭の中にはできていなければいけない、と。
で、その手の本には、すぐその後に「もっとも、これらのことは、実際に作品には登場することはないのだが」ってなことが書いてあったりします。「使わねぇんなら、いらねぇじゃねぇか」と思ってしまいがちですが、じつはこれが、そうでもないようです。実際に作品には出てこない部分、文章にはならない部分が、作者の頭の中にどれだけあるか、ということが、作品を裏で支える大きな力になるようです。
もちろんこれは、言葉にしないで読者に伝えろ、といっているわけではありません。そんなことは絶対に無理です。そうではなくて、伝えるべきことを意識して、数ある材料の中から、必要なものだけを選んで使え、という意味です。いいたいことがたくさんあればあるほど、その中から取捨選択して、より強くいいたいことだけを、文章にするようにしてください。
これは、考えようによっては、料理に似ているかもしれません。手持ちの材料を、とにかく全部使いきって作ったようなものよりも、数ある材料の中から、できあがった料理の良さを引き立たせてくれる素材を選択して、しかも同じ材料の中から、質の良いものだけを吟味して作った料理の方が、たぶんおいしいものに仕上がるはずです。単に量だけ多くて味のはっきりしない料理よりも、ちょっと少ないかな、と思うような量で、風味豊かな料理の方がおしゃれでしょ?どうせ作るなら、「おいしい!」といってもらいたいじゃないですか。
何をどう選べばいいか、という問題は、何をどう表現したいか、何を読者に伝えたいのか、ということによりますので、ここで「こうしろ」という説明をすることはできません。今あなたが読者に伝えたいことはいったいなんなのか、ということをよく考えて、不要な部分を削っていってください。
これには、かなりの練習が必要かもしれません。最初からうまく削ることは、できないかもしれません。ですから、最初のうちは、とりあえず全部吐き出してしまってもいいでしょう。そして、推敲の段階で、いらない描写を削ったり、言葉を変えたりして、少しずつシェイプアップしていくように、努力してみてください。文章だって、肥満は敵です。
いいたいことがたくさんありすぎて、削ることなんかできない、という場合もあるかもしれません。しかし、そんなときこそ、心を鬼にして、削る努力を重ねてください。というよりも、「いいたいことがたくさんありすぎる」という人は、それだけで充分幸せなんです。その幸せに溺れずに、幸せ太りしない努力を重ねてください。
書いている文章の、どこにピントを合わせるべきか。どこを一番伝えたいのか。そのためには、どこを削りどこを残せばいいのか。最初のうちは、思った通りの文章にならないかもしれません。そういう文章も、「書いたモノは残す」というルールに従って、きちんと残してください。その積み重ねによって、次第に慣れてきます。
最初のうちは、見る人が見れば、「おいおい、そっちを捨てるかね?」といいたくなるようなことを、してしまうかもしれません。それでもいいじゃありませんか。たくさん読んで、たくさん書いていくうちに、だんだんわかるようになってきますよ、きっと。場合によっては「これが俺の文章だ!」と開き直っちゃうのも手ですしね(笑)
もちろん、シェイプアップするためには、逆に書き手の頭の中には、あふれるほどのイメージがなければいけません。これも料理に通じるところがあるでしょう。ろくに材料がない状態なのに、そのうえその材料を出し惜しみしたら、ろくな料理にはなりません。もちろんプロの手にかかれば、あまりものだって立派な食材かもしれませんが、なんせこっちはド素人です。できあがりをなるべく同じようにするためには、より多くの材料を用意しなければならないんです。そうしないと、描写が薄っぺらになって、読者はその場面をイメージすることができなくなってしまいますから。ひとつひとつのシーンに対して、できるだけ多くの素材を用意してください。ひとつのシーン、ひとつの感情を、いかに多くの言葉で細かく表現するか。そしてそのたくさんの表現の中から、どれを使いどれを捨てるかに悩み、楽しんでください。
作者のいいたいことを、読者に的確に伝えるためには、山のようにある「いいたいこと」の中から、内容を選び、言葉を選んだ方が、より効果があがるのです。
ついでにいっておきますが、これまた料理と一緒で、使わなかった部分がそのままごみ箱行きか、というと、必ずしもそういうことにはならない場合も多々あります。あるシーンでは切り捨てた部分を、他のシーンで使ってみたり、別の作品に流用してみたり。そういうこともできますので、切り捨てるときは容赦なく切り捨ててしまいましょう。
もちろん、切り捨てた部分が二度と使えない、って可能性だって、山ほどあるんですが……
1999.12.24
作品の内容にもよるでしょうが、ほとんどの小説(のようなモノ)では、登場人物が喋ります。もちろん、登場人物がいっさい喋らない小説というものもあります。小説(のようなモノ)に会話が必要かどうかはわかりません。会話なんぞまったくなくても、ちゃんと小説らしい小説というのも存在するはずです。「俺は登場人物が喋る小説なんて書かない!」という方は、ここは読まなくて結構です。でも、小説(のようなモノ)を小説っぽくする手段のひとつに、「いきいきとしたセリフ」というのがありますので、読んでおいて損はないかもしれません。単に時間の無駄になる、という可能性もありますが。
地の文でいかに登場人物の性格を細かく描写しても、セリフがそれをだいなしにしてしまうこともありますし、逆にセリフのうまさのおかげで、その登場人物の性格にリアリティが生まれる、という場合だってあります。
たとえば、小説を読んでいて時々気になるのが、女性のセリフをかたっぱしから「~だわ」としている作品があるということ。もちろん、そういう喋り方をする女性だって、いないことはないでしょうが、現実問題として、語尾に「わ」をつけて喋る女性がどのぐらいいるか、ということです。
少なくとも、わたしのまわりにはいません。
どこかの高級住宅街に住んでいる奥様だのお嬢様だのならば、そういう喋り方をすることもあるかもしれません。でも、普通のOLやら学生やらが、ギャグや冗談でなく、
と喋っているのは、リアリティに欠けるでしょう。たとえ現実にそういう人がいたとしても、小説世界でのリアリティと現実とはまた別問題です。
老人のセリフにしてもそうです。出てくる老人がみんな「~じゃ」と喋っていると、非常に薄っぺらな感じがしてきます。
このあたりは、まず普段の練習が必要になってくるでしょう。
常日頃から人間観察をして、性別、年代、性格、色々な面から見て、どんな人がどんな喋り方をするのかに注意してみてください。中には、外見や性格と喋り方が一致しない人もいるかもしれません。そういう場合でも、なにがどう一致していないのかを考えてみるのも、おもしろいものです。
ところで、小説(のようなモノ)を読んでいて困るのが、誰がどのセリフをいっているのか、わからなくなる時がある、ということです。どうでもいいようなセリフの場合なら、誰が喋っていようが、それこそどうでもいいのですが、キーになるセリフが、どの人物が喋っているのかわからなかったりすると、読んでいて辛いものがあります。
ということは、書く場合にもこれは注意しなければならない、ということなわけです。
まあ基本的に、登場人物が二人しかいない場合は、その心配はほとんどないでしょう。たとえばこんな感じで。
と、まあこんな調子でやっていけばいいわけです。この文章には、登場人物の描写が一切ありませんが、とりあえず二人の人物が会話を交わしていることはわかると思います。ところが、この文章をちょっと変えると、三人の会話になっちゃうんですね。こんな感じ。
ね、最初のうちは、目の前の人物としてるんですが、途中で三人目が登場して来ちゃってるんですね。これで、三人の会話が成立してしまいます。問題は最後のセリフ。これが、最初の相手が言っているのか、途中から出てきた相手が言っているのかがわからなくなっちゃってますね。まあ、この例の場合には、はっきりいってどっちが言っていても関係ないようなセリフなんですが。通常は、そうでない場合もあるわけです。それをいったいどうすればいいのかを考えてみましょう。
まず一番簡単な方法は、大勢の人物を一度に登場させないこと。書くのが難しいシーンは、書かなきゃいいわけです。それが一番簡単。ただしここでいう「簡単」というのは、「どのセリフが誰のものなのかがわかりにくくなるという事態を避けるのが簡単」というだけのことで、それ以外の部分が簡単になるかどうかは別問題ですので、ご注意ください。
まあ作品の展開上、そういうシーンばかりというわけにもいかないでしょうが。逃げの手としては使えます。
次に簡単なのは、各セリフの後に「と、だれそれは言った」と入れる方法です。こんな感じで。
ただ、これってあんまりかっちょよくありませんね。そこで、ただ単に「と言った」と入れるだけではなく、バリエーションを加えてみてください。先の例は、多少のバリエーションを加えてはありますが、まだまだすごくかっちょ悪いです。なぜかっちょ悪いかというと、まずセリフと地の文が完全に交互に出てくるからです。これは、作文のあまり良くない例、「太郎君が「×××」と言ったので、ぼくが「○○○」と言うと、三郎君が「△△△」と言いました。」というのと同じことです。こういう場合は、地の文や無駄なセリフを多少間引いたり、つなげ直したりすることで、多少は改善されます。また、登場人物に動きをつけたり、それぞれの感情を描写することによっても、いくらか改善することができます。
ちょっとはそれっぽくなったでしょ?
会話を交わすとにきも、ちょっとの動きと感情の描写を入れてあげると、小説っぽくなるんです。
あとは、各登場人物の性格をきちんとかき分けることによって、それぞれがきちんと個性的で区別のできる喋り方をするように心がける、という方法もあります。
つまり、似たような性格で、似たような喋り方をする登場人物ばかり出すのではなく、バラエティに富んだキャラクター設定をすればいい、ということです。たとえ年齢性別が同じような登場人物ばかりでも、それぞれの性格は違うはずです。たとえば、ひとりは神経質、ひとりはのんびり屋、ひとりは口が悪いなどと、性格が違っていればいいわけです。性格が違えば、喋り方も違うはずです。そうすれば、セリフだけで、ある程度は区別できるはずです。
うまくできたかどうかはわかりません。だいたい、例題として、状況を勝手に作ってますから、普通に小説(のようなモノ)を書いている場合よりも、やりやすいといえばやりやすいんですが。まあ、作品の中のどこかでこのような会話をさせておいて、それぞれの喋り方を読者に印象づけておけば、そのあとも少しはわかりやすくなるはずです。
ベストなやり方は、セリフの書き分けをしつつ、動作や感情の描写を入れていくということでしょうか。たぶん、それがもっとも小説っぽくなるはずです。
まあ、なんにしても、最初のうちはあまり神経質にならずに、自分も登場人物のひとりになったつもりで、どんどん会話を書いて、それを楽しみましょう。後で読み返してみて、わかりにくいようだったら、いろいろと手を加えていけばいいんですから。
2000.04.18
実はこの「起承転結」に関しては、うちでは取り上げるのはやめようか、と思ってたんですが。なんでかというと、これって、どの「小説の書き方」やら「文章の書き方」を見ても、しっかりやってるでしょ?いまさらうちみたいな半端なところで取り上げる必要はないだろう、と思ってたんです。ところが、いくつもの「小説の書き方」系の本やらインターネット上のサイトやらを見ていて、意外と勘違いをしている人が多いということに気がつきまして。だったら、ちょいととりあげてみようかな、と。
なにが問題かは置いておいて、順番にはなしを進めましょう。なんせ話題が「起承転結」ですから。
まずは「起」です。
これはもう間違いようもなく、物語の発端です。基本的には、これがないとおはなしがはじまりません。逆にいうと、物語が始まったら、とりあえずそこが「起」である、といってしまうこともできるかもしれません。
まれに、「起」を「プロローグ」のようなものと思っている方がいらっしゃるようですが、それはまた別ものです。
たとえば推理小説の場合、プロローグでまず過去の事件を描写したとします。その場合、プロローグが終わったところで、本筋が始まるわけですが、本筋は本筋でそこから物語りが始まるわけですから、そこには当然「起」に相当する部分があるわけです。プロローグだけ見た場合でも、そこにもやはり「起」が存在するわけですね。ただ、プロローグだけ取り出した場合には、見た目上「起」だけしかないように見えたり「起承」あたりや「起承転」あたりで終わっている場合もあるかもしれません。それにしたって、何らかのおはなしを始める場合には、どうしても「起」は存在してしまうことになります。
小説の上では、通常「起」で「事件が起きる」ということになっています。もちろんこの場合の「事件」というのは、なにも殺人事件だったり、大きな事件である必要はありません。主人公が寝坊した、というようなことでも構いませんし、場合によっては、単に主人公が朝起きた、というようなことでもいいわけです。ただし、一般的には、オープニングはできるだけ印象的にした方が良い、とされていますから、ただいつもと同じように目覚めるだけではなく、何かちょっとしたことがあった方がいいかもしれません。
次に「承」です。
これも、通常は間違いようがありません。「起」で始まった物語をうけて、はなしを進める部分です。
はなしを進める部分ということは、なんとなく小説全体の中で占める割合が、もっとも多いのではないか、という気がします。長編小説の場合は、「起」もかなり長くなったりしますし、後述する「転」が長い場合もありますから、必ずしも「承」ばかりが長いというわけではありませんが、小説の場合、メインといえばメインかもしれません。
長い作品の場合、この「承」の中がまた「起承転結」に分かれていたり、「起」だけでも「起承転結」になっていたりします。逆に短い作品の場合には、この「承」や「転」がまったくなかったりする場合もあるようです。まったくない、といってしまうと語弊があるかもしれませんが。ないように見える作品もあります。
なんにしても、「起」で始まった物語を先に進める部分が「承」です。
さて、次は「転」ですが、これが問題。
ほとんどの「起承転結」の説明では、「転」を「物語が一転する」というような説明をしています。場合によっては、どんでん返しのようなものだとか、「意外な展開」といっていることもあります。これが実は大間違い。
本来の「転」は、「承」に続いてなお一層物語を進める、という意味になるのです。つまり「転」というのは、必ずしもどんでん返しや意外な展開に限ったものではないということです。「承」までで進めて来たおはなしを、より深く掘り下げるとか、違う角度から見てみるとか、そういった意味あいだと思ってください。
話しが先に進んでしまいますが、もともと「起承転結」の「結」というのは、結論やら結果やら結末の「結」なわけで、つまりここが一番いいたい部分、ということになるわけです。で、その直前にある「転」というのは「結」をよりわかりやすくするとか、より印象的にするとか、強調するとかいった目的のためにあるものなのです。
例をあげてみましょう。
小学生の作文のような例文ですが、一応「起承転結」になっています。ちょっと見ると「転」で意外な方向に進んでいるように見えるかもしれませんが、実際には「雨が降っていたけれど、遠足は中止ではなかった」という事実の展開に過ぎません。「僕」にとっては意外な事実だったかもしれませんが、客観的に見た場合、それほど意外性のある事柄ではありません。特に「承」の最後が「のに」となっていますから、読者は次に来る内容が、それまでの事実を否定するものだ、という予想をすることができます。そういう意味では、「転」を「意外な展開」と考えた場合、この例は「起承転結」のあまり良い例とはいえな
くなってしまいます。
でもこの例文の場合、一番いいたいことは、「ランドセルで遠足に行った」ということです。それはなんでかというと「雨が降ったのに、遠足が中止ではなかったから」ですね。つまり、大事なのは「遠足が中止になっていなかった」ということ。そのせいで、ランドセルしょって遠足に行く羽目になったわけですから。つまりこの場合の「転」は削るわけには行かない、大事な部分なんですね。「転」を削ってしまうと、話しが通じなくなります。この「転」は、ランドセルで遠足に行ったという結論を、よりわかりやすく説明するためにあるのと同時に、物語の最も重要な部分を担っているわけです。この場合の「転」は、どんでん返しだの意外な展開だのではなく、物語の核心に近いわけです。
あるいは、こんな例文はいかがでしょう。
わかりやすいですね(笑)
こんなこと、一度はいってもらいたいものですが、よく考えてみると「俺って世界中の人に嫌われるような奴なのか」という疑問がわいて来ます(笑)
それはそれとして。
「起」でおはなしが始まっています。あなたが好きなんです。「承」では、文字どおりそれを受けて、より話しを進めています。とっても好きなんです。ところが「転」でいきなり意味不明なことを言い出すわけです。それも、ちょっと見ると、いままで言っていたことと、まったく逆に取れるようなことを。そういう意味では「意外な展開」に相当しますね。
でも「結」でその意味がわかります。そのぐらいあなたのことが好きなのよ、ということです。歯が浮いてきます(笑)わたしには言えません。
この例文で言いたいことは、平たくいうと「あなたのことがすごく好きなのよ」です。じゃあどのぐらい、というのを順に説明しているわけです。しかも、その説明は順を追うに従って強調されてきます。最初はただ単に「好きよ」だったものが、「とっても好きよ」に強調され、「転」に書いてあることによって、より一層その内容が強調されて「結」に至るわけです。
この例文は、頭から読んでいくと、「転」で突然違うことを言い出したようにも見えるのですが、後ろから読んでいくと、この「転」が、明らかに結論をより強調するためにあるのだ、ということがよくわかります。
この場合の「転」は、削り取っても意味は通じます。そういう意味では、先の遠足の例文と違って、核心に近い部分ではありません。ただ、たしかにはなしは通じますが、「結」で提示している内容のインパクトは、削り取る前よりも数段落ちることは確かでしょう。
このように「転」というのは、ちょっと見ただけでは「意外な展開」のようにも見えるかもしれませんが、実際には「主題をそれまでとは別の側面から見ることによって、結論をより引き立たせるためのもの」なのです。
一般的には、この「転」の部分が物語のクライマックスになります。例えば、クライマックスで主人公と敵役が対決する場合、読者にとってそれは意外な展開でもなんでもありませんね。実際、読者にとっては、期待していた展開のはずです。その場合、読者にとって最も興味のある部分は「主人公は勝つのか」という点です。勝ったか負けたかを説明する部分が「結」だとすると、クライマックスの「転」は、その勝ち方あるいは負け方をより強調するシーンになるわけです。たとえ読者の興味が主人公が勝ったか負けたかにあったとしても、何の説明もなく、ただ「勝ちました」では読者は納得しません。読者が求めているのは、確かに結論や結果なのですが、ただそれだけを提示するのは、小説のやることではありません。読者は小説にそんなものは求めていないのですから。逆に、たとえ最初から主人公が勝つことがわかっているような内容のおはなしでも、読者がついてくるのは、「いかにして勝つか」という点を知りたいからでしょう。それを強調するために「転」があるのです。
おわかりいただけましたか?
とりあえず、「起承転結」の「転」は、意外な展開やどんでん返しのことなどではなく、「結」で出てくる結末をより強調するためにあるのだ、ということだけ覚えておいてください。そして、そういうつもりで物語を進めるように心がけてください。
この考え方は、論文などにも通用します。それまでの内容を否定するような展開を「転」でしておいて、その否定的な内容をふたたびきっちり否定することで、否定的な内容もきちんと検討したぞ、ということを表明する。これによって、主題に対する掘り下げがより深くなるわけです。
さてさて最後に「結」が残ってます。
まあ、ここまでの説明でおわかりでしょうし、これもそれほど取り違えようがありません。物語の締めくくりです。
途中で、「結」は結論や結果やら結末の「結」だ、と書きましたが、小説の場合にはほとんどの場合「結末の結」になるでしょう。「起」で物語りが始まって、「承」と「転」でそれを受け継ぎ、より詳しく説明し、その結果こんなんなりました、というのが「結」です。
ただし、ある種の小説にはこの「結」がない場合もあります。リドルストーリーと呼ばれる、読者に結論を委ねる作品の場合です。有名なものに「女か虎か」という作品がありますし「わたしが彼を殺した」なんぞもそのパターンでしょう。
リドルストーリーほどではないにせよ、この「結」がやたらと短い作品もあります。場合によって、最後の一行だけが「結」になっている場合もあります。そういう意味では、リドルストーリーには「結」がない、と言いましたが、実際には最後に読者に向かって「さあどっち」と問い掛けているとしたら、その一行こそが「結」になるのかもしれません。
でもまあ通常は、多少のページを割いています。かなり長い場合もありますし。
どちらにしても、これで物語が終わるわけですから、読者はこれまで親しんできた小説と、別れなければならないわけです。ここまで楽しんで来たかもしれませんし、苦痛を味わっていたかもしれません。でも「結」のでき如何によって、それまでの印象をまったく変えてしまうこともできるのです。そういう意味では、「結」こそがどんでん返しである場合もあります。
まあ、なにもどんでん返しや意外な結末を、必ず用意しなければいけないってことではありませんから、読者以上に作者自身が楽しんで物語を終わらせてください。
2000.04.22