文章を小説っぽくする

出典: 小説のようなモノの書き方

ここでは、小説っぽく見える文章の書き方について説明します。が、最初のうちは、読むだけ読んで、内容は忘れてください。この章の中で、書き始める前に意識する必要があるのは、<人称>の項だけです。

というのも、ここに書いてある<人称>以外のことをいちいち気にしながら文章を書こうとすると、とてもじゃありませんが、まともに文章なんか書けなくなります。

最初のうちは、「まずはいきなり書いてみる」を参照して、ガンガン書いちゃってください。で、推敲する時点で、ここに書かれていることを参考にして推敲してみてください。

で、推敲した結果が小説っぽくならなかったからといって、苦情なんぞ言ってこないように(笑)

目次

とりあえず言葉の選び方

文章を小説っぽくする場合、なによりも大切なのは言葉の選び方です。

まず文末ですが、「です・ます」調は避けた方がいいでしょう。そんなものは好みの問題だ、と言ってしまえばそれまでなんですが、「です・ます」調では気弱に見えます。

小説というのは、なんといっても作者が神様ですから。多少強気に出てもいいはずです。そういう意味では、「です・ます」調よりも「だ・である」で攻めた方がそれっぽく見えるはずです。

ただ、「人称」でも述べますが、小説の文章には人称というものがあって、一人称形式の場合には、いくら作者が神様といっても、語り手は登場人物のひとりになるわけですから、その場合はその登場人物の性格にあわせた文体にする必要があるのは当然のことです。

つぎに、使用する各種の単語ですが、これはできるだけ、自分が知っている単語を使用するようにしてください。そりゃもちろん、存在すら知らない単語は、最初っから頭に浮かばないはずですから、使えるはずはありませんけどね。ここでいう知っている単語っていうのは、「よく知っている」もしくは「使い慣れている」という意味です。小説っぽく書くとは言っても、自分の言葉で書きましょうや。

ときどき、小説っぽくするつもりなのか、よく知りもしない難しい単語を使う人がいますが、文章全体を難しい単語で統一するのならばまだしも、思い付いたように難解な単語が出てくると、当然そこだけ浮いて見えます。いってみれば、普通に文章を書いていて、難しい知らない漢字を、辞書を見ながら書くと、その字だけやけに丁寧になってしまうようなものです。

全体を難しい単語で統一して、雰囲気を出すようにするのもいいのですが、ド素人の場合はそれはかなり困難でしょう。


人称(誰の目を通して書くか)

わたしが「人称」という言葉を覚えたのは、たぶん中学一年の英語の時間だったと思います。

「I」が一人称。「YOU」が二人称。「HE・SHE」が三人称。

小説でも一緒です。地の文(会話以外の部分ですね)で、「わたしが……」ってな書き方をしているのが、一人称小説。「きみが……」ってな書き方をしているのが、二人称小説。「彼が……」「彼女が……」ってな書き方をしているのが、三人称小説。ひらたくいうと、これだけです(笑)

一人称小説は、基本的には登場人物の一人の目を通して、物語が語られます。

登場人物ったって、必ずしも人間とは限りません。このタイプでは、夏目漱石とかいう人が書いた、猫の目を通して語られる物語が、かなり有名です。

「ある朝目を覚ますと、わたしは巨大なブタになっていた」ってな文章です。

順番から行くと、普通は次のパターンには、二人称が来るのでしょうが、それは飛ばして三人称。

三人称は、別名「神の視点」と呼ばれています。ひらたく言えば、小説の中には登場しない存在の目を通して物語が語られるのです。まあ、一般的な映画やマンガを、文章で表現したと思えばいいでしょう。

「ある朝目を覚ますと、彼は巨大なブタになっていた」ってな文章です。

通常の小説は、この一人称か三人称のどちらかが使用されます。

二人称小説というのは、極めて希です。

これは、まるで作者が読者に語りかけるかのように、物語が語られます。この形式の小説を読んでいると、だんだん異様な気分になって来ます。

なんせ、「ある朝目を覚ますと、きみは巨大なブタになっていた」ってな感じになるんですから。

実際には何人もの作家が書いているのでしょうが、わたしが知っているこの形式の小説は、都筑道夫の「やぶにらみの時計」という小説だけです。

どれを選ぶかは、作者の自由。ただし、ひとつの小説では、基本的にはひとつの人称で書き進めてください。意識して、章毎に人称を変えるのはいいのですが、みっつの人称がごっちゃになると、それはもう、小説以前に、文章ではなくなると思います。そのうちためしてみましょう(笑)

ちなみに、いずれ<ふろく>の<小説のようなもの>の中で発表する予定(あくまでも予定)の「グラン」という小説は、意識的に章毎に一人称と二人称を書き分けています。お楽しみに(しないか、誰も)

さて、理由は「視点」で述べますが、ド素人が小説を書く場合、一人称にするのが一番いいでしょう。


視点(誰の立場で考えるか)

辞書によると、視点とは「物を見るために向けた視線がそそがれる点」ということになっていますが、小説の場合の視点とは、「見る」ということだけでなく「聞く」「考える」「感じる」という要素も含まれます。

つまり、地の文(会話以外の部分ですね)で、読者は誰に荷担すればいいか、ということなんですが……よけいわかりにくいか(笑)

一番単純なのは、一人称形式の場合です。

一人称形式の場合には、地の文は必ず登場人物の語りになっていますから、視点は必ずその登場人物のもの、ということになります。つまり、その人が見たこと、聞いたこと、考えたこと、感じたことが、表現されればいいわけです。逆にいうと、その人が見ていないこと、聞いていないこと、考えていないこと、感じていないことは、書けない、ということになります。当然ですよね。

よくわからない、という方は、自分の日常を、そのまま一人称の小説にすることを、考えてみてください。書けることは、自分が見たこと、聞いたこと、考えたこと、感じたことだけのはずです。それ以外のことは、想像するしかありません。で、想像した場合は、想像した、という表現にしなければならないのです。

たとえば、好きな相手がいたとします。とりあえず、片思い状態ということにしましょう。

で、その人がこっちをどう思っているのかは、当然のことですが、わかりません。その人の一挙手一投足を見て、こっちは一喜一憂するわけです。

現実の世界でそうなのですから、小説の世界でも同じです。もちろん、主人公が超能力者で、他人の考えが読めるっていうなら別ですが(笑)

で、一人称小説の場合、語り手は常にひとりですから、視点も定まる。慣れない場合は、これが一番書きやすいでしょう。

難しいのは、三人称の場合です(この場合は、二人称小説も扱いは一緒です)。

三人称小説の場合、語り手は小説の中には実在しません。実在しない語り手ですから、逆にどこにでも存在できることになってしまいます。映画やテレビドラマのカメラみたいなものですから、「見る」「聞く」ということに関しては問題ないんですが、問題は「考える」と「感じる」です。

地の文で、誰の立場になって考え、感じるか。これはじつは、ほとんど言葉じりの問題に近いものがあるんで、気にしないでいるとどんどん混乱してきます。

例をあげてみましょう。

設定はこうです。

太郎君が花子さんをにらみつけます。花子さんは視線をそらせます。そのとき、太郎君は怒っています。花子さんは悲しくなっています。にらみつけていることと、視線をそらせることは、目に見える現象ですから、問題はありません。問題になるのは、太郎君が怒っていることと、花子さんが悲しんでいること。これは、視点によって、はっきりわかる場合と、想像するしかない場合とに別れます。

これをまず、太郎君の一人称で表現してみましょう。

「ぼくが怒ってにらみつけると、花子は悲しそうに視線をそらせた」

太郎君は、自分が怒っていることはわかりますが、花子さんが悲しんでいることは、想像するしかありません。ですから、「悲しそうに」という表現になります。

逆に、花子さんの一人称にすると、

「太郎が、怒ったようにわたしをにらみつけたので、わたしは悲しくなって、視線をそらせた」

となります。

念のため、太郎君の一人称で、誤った表現をしてみましょう。

「ぼくが怒って花子をにらみつけると、花子は悲しくなって視線をそらせた」

太郎君には、花子さんが悲しくなっていることは、わかるはずがないのですから、この表現は誤りです。

ちなみに、

「ぼくが怒ったように花子をにらみつけると」

という表現の場合は、誤りではありませんが、ニュアンスが少々変わってきます。この表現の場合、太郎君は本当は怒っていない、というような雰囲気になってしまいます。

では次に、三人称の場合です。

これは、いくつかのパターンが考えられます。

まず、太郎君の立場になった場合。

「太郎が怒って花子をにらみつけると、花子は悲しそうに、視線をそらせた」

次に、花子さんの立場になった場合。

「太郎が怒ったように花子をにらみつけたので、花子は悲しくなって、視線をそらせた」

次に、どちらの立場にもならない場合。

「太郎が怒ったように花子をにらみつけると、花子は悲しそうに視線をそらせた」

ここまでは、どれも誤りではありません。

そして、両方の立場に立ってしまう場合。

「太郎が怒って花子をにらみつけると、花子は悲しくなって視線をそらせた」

これも、絶対的な誤りということではないでしょうが、小説としては敬遠されることが多いようです。ひとつの文章の中で、異なる視点を使うのは、あまり好まれないようです。

もし双方の立場に立ちたい場合は、

「太郎が怒って花子をにらみつけた。花子は悲しくなって視線をそらせた」

とふたつの文章に分けることをおすすめします。

この視点の問題は、「小説のようなもの」を書くだけの場合、「そこまでしなきゃいかんのかい?」と思いたくなるような問題です。だから、無視してもかまいません(ここまでいろいろ書いておいてそんなこというか?)が、こういうところを気を使うだけで、小説っぽく見えること請け合いです。


小説っぽい文体

ある程度意識していないと気が付かないことかもしれませんが、小説には小説の文体というものがあります。もちろん、ひとくくりに小説の文体といっても、書いた人によって、その文体は違います。それでも、小説の文体と新聞の文体は、明らかに違います。

その理由のひとつに、新聞は文体から個性を消すことを目標にしているため、というのがあります。新聞記事の文体が、書き手によってまちまちだったら、読んでる方は疲れるでしょ?

今日午後二時すぎ、太郎君は花子さんの家を訪問し、居合わせていた山田君とともにテレビゲームを楽しみました。

こう書くと、いかにも新聞かテレビのニュースのような感じを受けると思います。これを小説風に書くとどうなるか。

太郎君が花子さんの家へ行き、居合わせていた山田君とともにテレビゲームを楽しんだのは、今日の午後二時すぎのことだった。

どうです?なんとなく、それっぽいでしょ?

え?陳腐な文章だって?いいんです。それっぽければ。

もしこの違いがわからない場合は、もっとたくさん小説を読んでください。新聞もたくさん読んでください。間違っても、

「おまえの文章が悪いからだ」

なんて考えないように。

それはさておき、このように、小説っぽい文章というのは存在します。

小説の中には、新聞風に書かれたものとか、日記風に書かれたものもありますが、それはあくまでも意図的にやっていることで、ド素人が小説「のようなモノ」を書く場合には、「どれだけ小説っぽく見えるか」という点が重要になりますので、できるだけ小説っぽく書くようにしましょう。

実は、市販されている各種の「小説の書き方」の本の中に、このことに触れている本がほとんどないんです。

そのため、今のわたしの能力では、

「たくさん読んで、雰囲気をつかんでください」

としか言えません。もう少し研究を重ねて、小説っぽく見せる文体の謎が解けたら、またここで説明しますので、それまで少々お待ちください。一生待待たされる可能性もありますが・・・・

まあ、わたしも、市販の「小説の書き方」をすべて読んでいるわけじゃありませんから、このことについて書いてある本もあるのかもしれません。どなたか、「この本には書いてある」というのをご存知の方、ぜひご一報ください。


読みやすい文章を書く

内容に自信があればともかく、内容に自信のない場合は、できるだけ読みやすい文章を書く必要があります。内容に自信があったって、文章は読みにくいより読みやすい方がいいに、こしたことはありません。

で、読みやすい文章というのがどういうものか、というと、これが実に説明しづらい。もちろん、本職の書いた「文章の書き方」の本を見れば、その手のことは書いてあります。しかし、「主語がどうの」とか「修飾語がなんたら」といわれても、ちんぷんかんぷんで。

そこで、この項は、「書くための練習のようなモノ」の中の「読みにくい文章を書く」と連動して、読みにくい文章を、どう直せば、少しでも読みやすくすることができるか、という話をしてみようと思います。

ただ、読みやすい文章というのは、別に「すばらしい文章」のことをさしているわけではありませんので、そのあたりは勘違いしないようにしてください。だいたい、「すばらしい文章」とか「名文」といわれるものは、わたしには書けないんですから、説明のしようがありません。

まず、ひらがなばかりで読みにくい文章は、適度に漢字を入れれば、読みやすくなります。逆に漢字ばかりで読みにくい文章は、漢字を減らしてひらがなにしてやれば、読みやすくなります。で、どのぐらいの配分が読みやすいか、という問題に関しては、各自いろいろ試してみて、コツをつかんでください。

他人の書いた文章をいろいろ分析してみる、というのも、手のひとつです。分析ったって、べつに「全部で何文字中、漢字が何文字で」なんて数える必要はありません。好きな作家の文章を見て、「この字は漢字を使ってる」とか「これはひらがなにしてるのか」と思えばいいわけです。この場合、あくまでも文章を「見る」のだ、ということに注意してください。「読ん」でしまうと、内容の方に意識が行ってしまって、字面に意識が行かなくなりますから。

句読点の入れ方も同じです。句読点の多い少ないは、ある程度は書き手読み手の好みがありますので、自分にとって適度な句読点の入れ方は、「書くための練習のようなモノ」の中の「[[書くための練習のようなモノ#読みにくい文章を書く|読みにくい文章を書く」を参考にして、練習してみてください。ただ、句読点を入れる場合には、ある程度のコツというか、約束のようなものは、いくつかあります。

まず句読点は、必ず意味の区切りで入れる、ということ。中途半端な位置に入れてはいけません。たとえば、こんな感じ。

「わた、しは彼に。いった」

まあ、いくらなんでも、こんな使い方をする人はまずいないでしょうが。この文章に正しく句読点を入れるとしたら、

「わたしは、彼にいった。」
「わたしは彼に、いった。」
「わたしは、彼に、いった。」
「わたしは彼にいった。」

このいずれかになるはずです。どの使い方も、間違いではありません。問題は、どの使い方をするか、ということでしょう。

それぞれに、多少意味合いが違ってきます。読点を打つ位置によって、その文章の、どこに重点が置かれているかが変わってきます。

先の例でいくと、「わたし」に重点が置かれているか、「彼」に重点が置かれているか、「いった」に重点が置かれているかの違いです。

どの例がどれにあたるのかは、ここでは説明しません。なぜかというと、わたしが思うに、文章のどこに重点が置かれているか、ということは、本来、読点だけで表現するべきものではないはずだからです。読点だけで表現したのでは、あまりにも曖昧すぎると思います。国語の試験じゃないんですから、

「上の例文のうち、「彼」に重点が置かれているのは何番か」

なんて聞かれても、「知るか、そんなの」といいたくなります。

だいたい、意味があって重点を置きたいのならば、読点のような曖昧なやり方ではなく、文章できちんと表現すればよいはずです。それをしないということは、どう取られてもいいと、作者が考えているに違いないのです。

とはいっても、ここは「ド素人のための小説のようなモノの書き方」ですから、読んでいる方はおそらく「ド素人」を自負している方でしょう。そうなると、どこに重点が置かれてしまうか、などという細かいことまで意識せずに、とりあえず読点を打ってしまうことは、数多くあると思います。その結果自分が意図した通りには、他人が読んでくれないことになる。それではちょっと困りますね。

そこで、句読点を入れる練習です。「読みにくい文章を書く」の中で紹介している、まず句読点を入れずに文章を書いて、あとから句読点を入れてみる、という練習をしてみてください。

長くて読みにくい文章の場合には、いくつかの短い文章に切ればいいわけですが。問題は、どこでどう切るか、ということですね。これにも、書き手のセンスと好みがありますので、一概に「こうしなさい」ということはいえません。

たとえば、「読みにくい文章を書く」の中に出てきた例文、

「昨日結婚したわたしの姉の亭主であり、わたしにとっては大学時代の恩師でもある彼が、徹夜明けで髭も剃っておらず、髪もぼさぼさで疲れきった顔をしているはずのわたしの方に、何か楽しいことでもあったときの彼特有の癖でもある、間の抜けたスキップのような足取りで走って来た」

を例にとってみましょう。これはもともと、

「彼がわたしの方に走って来た」

という文章に、余計な説明をつめこんだものだ、ということは、おわかりいただけると思います。ということは、長い文章から、説明部分だけを切り取って、いくつかの文章に分ければいいはずです。

「彼がわたしの方に走ってきた。彼は、昨日結婚したわたしの姉の亭主であり、わたしにとっては大学時代の恩師でもある。例によって、何か楽しいことでもあったときの彼特有の癖でもある、間の抜けたスキップのような足取りだ。わたしは、といえば、徹夜明けで髭も剃っておらず、髪もぼさぼさで、疲れきった顔をしているはずだった」

これで少しは理解しやすくなったはずです。完璧かどうかは、別にして。いくつか単語の追加もしています。それは、どうしても避けられないことでしょう。それに、おそらくまだ、一部理解しにくい部分があると思います。このあたりは、順序を入れ替えたり、句読点の位置を変えたりして、工夫していけばよいわけです。

このあたりは、ワープロを使えば楽にできると思います。自分の文章をいろいろといじくりまわしてみるのも、結構楽しいものです。

どうしても思い通りの文章にならない場合でも、やけになってはいけません。

そういう場合は、その文章は二、三日ほうっておいて、頭を冷やしてから、再度検討してみましょう。それでもだめな場合は、とりあえずあきらめる(笑)

たかが「小説のようなモノ」です。命がかかってるわけじゃなし。多少の欠点も魅力のうちと考えて。それに、いろいろな文章を書いていくうちに、だんだん慣れてきますから、いつか、いい文章に変更できることもあるでしょう。そのときまで、とりあえずほうっておきましょう。

1999.02.24


一人称の落とし穴

ド素人が小説(のようなモノ)を書く場合、一人称形式がよい、と書きました。それはたしかにそうなんです。すくなくとも、視点のずれという観点に立った場合には。

ところが、視点のずれを考慮しない場合、あるいは、それがクリアできている場合でも、一人称小説の場合には、困ったことが起きてくる可能性があります。

まず、語り手が見ていないこと、聞いていないこと、感じていないことは書けない、という点。これで苦労してしまう人が多いようです。

その作品の構成によっては、語り手が見ていないことや聞いていないことまで、どこかで書かなければならないことも出てきます。そういう場合に、いきなりその行あるいはその段落だけ三人称にしてしまうと、とんでもないことになります。一般的には、「この作者は小説の書き方をわかってない」などと決め付けられてしまうようです。

そこで、一人称形式の作品で、主人公が見ても聞いてもいないことを、作品中で記述しなければならなくなった場合の、逃げ道を考えてみましょう。

まず第一に、誰か他の登場人物に見聞きさせて、それを主人公に伝えさせる、という方法。簡単なやり方としては、こんな感じになります。

「そういえば、おまえがいない間に奴が来て、こんなことを言ってたぞ」

と、誰かに喋らせる。

ただし、この場合には、語り手はその場で喋っている登場人物の言葉を信じるしかなくなるわけです。つまり、読んでいる読者も、作品の語り手と同じ立場に立っているわけですから、喋っている登場人物が、本当のことをいっているのか、嘘をついているのかは、主人公の主観を通してしか、理解することはできなくなります。

もちろん、それを逆手にとって、そのとき喋っていた人物が嘘をついていた、ということがあとでわかってもいいわけですが。

そういう意味では、このやり方は、ある種本格推理小説を書く場合には向いているのかもしれません。

本格推理小説は、読者が探偵と同じ立場に立って事件を推理できるようにする、というのが一般的な考え方ですから、探偵役の人物が見聞きしたことが、その人物と同じように読者の目に入ってくるようにするには、もってこいの方法なのかもしれません。

ただ、この方法をあまり多用すると、やたらと会話ばかりの作品になってしまう可能性もあります。

これが長編小説の場合、大きなくくり(たとえば章毎)で、一人称と三人称を使い分ける、なんてぇやり方もありますが、短い作品の場合には、それはおすすめできません。

そういう場合にはどうしたらよいか、ということですが。

単純にいうと、どうしてもその必要がない限り、語り手の見聞きしていないことは書かないようにするしかない、ということになってしまいます。

逆にいうと、一人称形式の作品であるにもかかわらず、どうしても主人公が見たり聞いたりしていないことを書かなければならなくなったとしたら、それは一人称形式で書いていることが間違いなんだ、ということになってしまうのです。つまりその作品は、三人称形式で書くべき作品だったのだ、ということです。

だからといって、せっかく途中まで書いたものを、最初から書き直すなんてことは、やりたくありません。そういう場合には、ワープロの威力を発揮しましょう。とりあえず、そこまでの文章は保存して、できれば印刷します。そして主人公が「俺」とか「わたし」といっているところを、全部「彼」とか「太郎」とかに変えてあげればいいんです。

もちろん、場合によっては文章を一部修正する必要も出てくるでしょう。それでも、最初から全部書き直すよりは楽なはずです。しかもありがたいことに、もともと一人称で書いた作品ですから、視点はすべて主人公のものになっているはずですから、視点のずれがほとんどないという利点もあります。もしそれで視点のずれが起きているようなら、一人称の時点でおかしかった、ということになるはずです。

以前一度だけ、それを意識して、最初に一人称で文章を書いて、それをそのまま三人称に変えてみる、ということをしたことがあります。

結構大変でした(笑)

あんまりおすすめできるやり方ではありません。そういう意味で、その作品を一人称形式で書くか、三人称形式で書くかという問題は、できれば書き始める前に、きちんと検討しておくことをおすすめします。

一人称形式の文章の場合、他にも落とし穴があります。じつはこれ、掲示板の方で質問されて気がついたんですが。そういわれて、下手な一人称形式の作品を読んでみると、ときどきそういうのがあるようなんですが。

どういうことかというと。

主人公が、ナルシストになってしまう、ということです。

もちろんこれは、文字どおりの意味ではありません。実際はそうではないのに、まるで主人公がナルシストであるかのような文章になってしまうことがある、という意味です。

たとえば、主人公自身の外見を説明する場合、三人称形式の作品ならば、何の問題もありません。主人公が登場したところで、あるいはその少しあとで、主人公の外見を描写してあげればいいのです。ところが一人称小説で主人公の外見を説明する、ということは、つまり自分で自分の外見を説明しなければならないわけで、普通人間というものは、めったにそういうことはしないものです。少なくとも鏡を見たときとか、そういった外的要因がなければ、自分の髪型がどうとか、服装がどうとか、体型がどうとかいうことは、意識の中にはありません。ですから、主人公自身の見た目を描写するためには、主人公が自分の外見を意識しているシーンを盛り込んであげなければならなくなるのです。

このあたり、実は少し面倒な場合もあります。ストーリーにまったく関係ないのに、主人公が自分の外見を意識してしまうと、先にも書いたように、ナルシストになってしまいます。そうでなくても、うまく入れないと自意識過剰の気があるような感じになってしまう場合もあるわけです。

これを避ける方法のひとつとして、特殊な外見の場合を除いて、主人公の外見は無視してしまう、というのも手のひとつです。

つまり、よっぽどおかしな格好をしているとか、むちゃくちゃ太っているとか、身長が3メートル以上あるとか、そういった、外見上どうしても読者に知っておいてもらいたいようなこと以外は、わざわざ書く必要はない、ということです。そりゃもちろん、きちんと描写してあるにこしたことはありません。でも、下手に書いて、全体の流れがおかしくなってしまったり、主人公が自意識過剰になってしまうよりは、いっそ書かない方がましの場合もある、ということです。

たとえば、全体の流れから、主人公が当たり前のサラリーマンだということがわかっていれば、そして現在仕事中だということがわかるように書いてあれば、主人公はほぼ間違いなくスーツにネクタイです。仮にそうでなかったとしたら、それなりに理由があるはずですから、その理由と一緒に、服装を描写してあげればいいはずです。サラリーマンが仕事中にスーツを着てネクタイを締めている場合、それをいちいち描写するのは、おそらく無駄でしょう。

ただ、なんらかのもっともらしい理由があって、主人公の外見を説明する場合でも、気をつけなければならないことがあります。

ド素人の場合に陥りがちなミスとして、主人公の外見を描写している瞬間には、主人公の視点ではなく、書き手の視点に立ってしまうことがある、ということです。

たとえば、主人公が趣味の悪いネクタイをしていたとしても、主人公がそれを意識しているならば別ですが、通常はネクタイを締めている本人は「趣味が悪い」とは思っていないはずです。それを、あたかも第三者が見ているように、「俺はいつも趣味の悪いネクタイを締めて」などと書かないように気をつけてください。一人称で書く場合には、あくまでも語り手の視点に立って物事を考えるようにしてください。

2000.02.06

当サイトの使い方
個人用ツール