文章を小説っぽくする

出典: 小説のようなモノの書き方
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さて、理由は「[[#視点|視点]]」で述べますが、ド素人が小説を書く場合、一人称にするのが一番いいでしょう。
さて、理由は「[[#視点|視点]]」で述べますが、ド素人が小説を書く場合、一人称にするのが一番いいでしょう。
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==視点(誰の立場で考えるか)==
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辞書によると、視点とは「物を見るために向けた視線がそそがれる点」ということになっていますが、小説の場合の視点とは、「見る」ということだけでなく「聞く」「考える」「感じる」という要素も含まれます。
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つまり、地の文(会話以外の部分ですね)で、読者は誰に荷担すればいいか、ということなんですが……よけいわかりにくいか(笑)
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一番単純なのは、一人称形式の場合です。
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一人称形式の場合には、地の文は必ず登場人物の語りになっていますから、視点は必ずその登場人物のもの、ということになります。つまり、その人が見たこと、聞いたこと、考えたこと、感じたことが、表現されればいいわけです。逆にいうと、その人が見ていないこと、聞いていないこと、考えていないこと、感じていないことは、書けない、ということになります。当然ですよね。
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よくわからない、という方は、自分の日常を、そのまま一人称の小説にすることを、考えてみてください。書けることは、自分が見たこと、聞いたこと、考えたこと、感じたことだけのはずです。それ以外のことは、想像するしかありません。で、想像した場合は、想像した、という表現にしなければならないのです。
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たとえば、好きな相手がいたとします。とりあえず、片思い状態ということにしましょう。
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で、その人がこっちをどう思っているのかは、当然のことですが、わかりません。その人の一挙手一投足を見て、こっちは一喜一憂するわけです。
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現実の世界でそうなのですから、小説の世界でも同じです。もちろん、主人公が超能力者で、他人の考えが読めるっていうなら別ですが(笑)
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で、一人称小説の場合、語り手は常にひとりですから、視点も定まる。慣れない場合は、これが一番書きやすいでしょう。
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難しいのは、三人称の場合です(この場合は、二人称小説も扱いは一緒です)。
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三人称小説の場合、語り手は小説の中には実在しません。実在しない語り手ですから、逆にどこにでも存在できることになってしまいます。映画やテレビドラマのカメラみたいなものですから、「見る」「聞く」ということに関しては問題ないんですが、問題は「考える」と「感じる」です。
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地の文で、誰の立場になって考え、感じるか。これはじつは、ほとんど言葉じりの問題に近いものがあるんで、気にしないでいるとどんどん混乱してきます。
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例をあげてみましょう。
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設定はこうです。
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太郎君が花子さんをにらみつけます。花子さんは視線をそらせます。そのとき、太郎君は怒っています。花子さんは悲しくなっています。にらみつけていることと、視線をそらせることは、目に見える現象ですから、問題はありません。問題になるのは、太郎君が怒っていることと、花子さんが悲しんでいること。これは、視点によって、はっきりわかる場合と、想像するしかない場合とに別れます。
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これをまず、太郎君の一人称で表現してみましょう。
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:「ぼくが怒ってにらみつけると、花子は悲しそうに視線をそらせた」
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太郎君は、自分が怒っていることはわかりますが、花子さんが悲しんでいることは、想像するしかありません。ですから、「悲しそうに」という表現になります。
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逆に、花子さんの一人称にすると、
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:「太郎が、怒ったようにわたしをにらみつけたので、わたしは悲しくなって、視線をそらせた」
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となります。
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念のため、太郎君の一人称で、誤った表現をしてみましょう。
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:「ぼくが怒って花子をにらみつけると、花子は悲しくなって視線をそらせた」
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太郎君には、花子さんが悲しくなっていることは、わかるはずがないのですから、この表現は誤りです。
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ちなみに、
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:「ぼくが怒ったように花子をにらみつけると」
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という表現の場合は、誤りではありませんが、ニュアンスが少々変わってきます。この表現の場合、太郎君は本当は怒っていない、というような雰囲気になってしまいます。
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では次に、三人称の場合です。
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これは、いくつかのパターンが考えられます。
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まず、太郎君の立場になった場合。
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:「太郎が怒って花子をにらみつけると、花子は悲しそうに、視線をそらせた」
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次に、花子さんの立場になった場合。
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:「太郎が怒ったように花子をにらみつけたので、花子は悲しくなって、視線をそらせた」
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次に、どちらの立場にもならない場合。
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:「太郎が怒ったように花子をにらみつけると、花子は悲しそうに視線をそらせた」
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ここまでは、どれも誤りではありません。
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そして、両方の立場に立ってしまう場合。
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:「太郎が怒って花子をにらみつけると、花子は悲しくなって視線をそらせた」
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これも、絶対的な誤りということではないでしょうが、小説としては敬遠されることが多いようです。ひとつの文章の中で、異なる視点を使うのは、あまり好まれないようです。
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もし双方の立場に立ちたい場合は、
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:「太郎が怒って花子をにらみつけた。花子は悲しくなって視線をそらせた」
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とふたつの文章に分けることをおすすめします。
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この視点の問題は、「小説のようなもの」を書くだけの場合、「そこまでしなきゃいかんのかい?」と思いたくなるような問題です。だから、無視してもかまいません(ここまでいろいろ書いておいてそんなこというか?)が、こういうところを気を使うだけで、小説っぽく見えること請け合いです。

2008年7月21日 (月) 04:23の版

ここでは、小説っぽく見える文章の書き方について説明します。が、最初のうちは、読むだけ読んで、内容は忘れてください。この章の中で、書き始める前に意識する必要があるのは、<人称>の項だけです。

というのも、ここに書いてある<人称>以外のことをいちいち気にしながら文章を書こうとすると、とてもじゃありませんが、まともに文章なんか書けなくなります。

最初のうちは、「まずはいきなり書いてみる」を参照して、ガンガン書いちゃってください。で、推敲する時点で、ここに書かれていることを参考にして推敲してみてください。

で、推敲した結果が小説っぽくならなかったからといって、苦情なんぞ言ってこないように(笑)

とりあえず言葉の選び方

文章を小説っぽくする場合、なによりも大切なのは言葉の選び方です。

まず文末ですが、「です・ます」調は避けた方がいいでしょう。そんなものは好みの問題だ、と言ってしまえばそれまでなんですが、「です・ます」調では気弱に見えます。

小説というのは、なんといっても作者が神様ですから。多少強気に出てもいいはずです。そういう意味では、「です・ます」調よりも「だ・である」で攻めた方がそれっぽく見えるはずです。

ただ、「人称」でも述べますが、小説の文章には人称というものがあって、一人称形式の場合には、いくら作者が神様といっても、語り手は登場人物のひとりになるわけですから、その場合はその登場人物の性格にあわせた文体にする必要があるのは当然のことです。

つぎに、使用する各種の単語ですが、これはできるだけ、自分が知っている単語を使用するようにしてください。そりゃもちろん、存在すら知らない単語は、最初っから頭に浮かばないはずですから、使えるはずはありませんけどね。ここでいう知っている単語っていうのは、「よく知っている」もしくは「使い慣れている」という意味です。小説っぽく書くとは言っても、自分の言葉で書きましょうや。

ときどき、小説っぽくするつもりなのか、よく知りもしない難しい単語を使う人がいますが、文章全体を難しい単語で統一するのならばまだしも、思い付いたように難解な単語が出てくると、当然そこだけ浮いて見えます。いってみれば、普通に文章を書いていて、難しい知らない漢字を、辞書を見ながら書くと、その字だけやけに丁寧になってしまうようなものです。

全体を難しい単語で統一して、雰囲気を出すようにするのもいいのですが、ド素人の場合はそれはかなり困難でしょう。


人称(誰の目を通して書くか)

わたしが「人称」という言葉を覚えたのは、たぶん中学一年の英語の時間だったと思います。

「I」が一人称。「YOU」が二人称。「HE・SHE」が三人称。

小説でも一緒です。地の文(会話以外の部分ですね)で、「わたしが……」ってな書き方をしているのが、一人称小説。「きみが……」ってな書き方をしているのが、二人称小説。「彼が……」「彼女が……」ってな書き方をしているのが、三人称小説。ひらたくいうと、これだけです(笑)

一人称小説は、基本的には登場人物の一人の目を通して、物語が語られます。

登場人物ったって、必ずしも人間とは限りません。このタイプでは、夏目漱石とかいう人が書いた、猫の目を通して語られる物語が、かなり有名です。

「ある朝目を覚ますと、わたしは巨大なブタになっていた」ってな文章です。

順番から行くと、普通は次のパターンには、二人称が来るのでしょうが、それは飛ばして三人称。

三人称は、別名「神の視点」と呼ばれています。ひらたく言えば、小説の中には登場しない存在の目を通して物語が語られるのです。まあ、一般的な映画やマンガを、文章で表現したと思えばいいでしょう。

「ある朝目を覚ますと、彼は巨大なブタになっていた」ってな文章です。

通常の小説は、この一人称か三人称のどちらかが使用されます。

二人称小説というのは、極めて希です。

これは、まるで作者が読者に語りかけるかのように、物語が語られます。この形式の小説を読んでいると、だんだん異様な気分になって来ます。

なんせ、「ある朝目を覚ますと、きみは巨大なブタになっていた」ってな感じになるんですから。

実際には何人もの作家が書いているのでしょうが、わたしが知っているこの形式の小説は、都筑道夫の「やぶにらみの時計」という小説だけです。

どれを選ぶかは、作者の自由。ただし、ひとつの小説では、基本的にはひとつの人称で書き進めてください。意識して、章毎に人称を変えるのはいいのですが、みっつの人称がごっちゃになると、それはもう、小説以前に、文章ではなくなると思います。そのうちためしてみましょう(笑)

ちなみに、いずれ<ふろく>の<小説のようなもの>の中で発表する予定(あくまでも予定)の「グラン」という小説は、意識的に章毎に一人称と二人称を書き分けています。お楽しみに(しないか、誰も)

さて、理由は「視点」で述べますが、ド素人が小説を書く場合、一人称にするのが一番いいでしょう。


視点(誰の立場で考えるか)

辞書によると、視点とは「物を見るために向けた視線がそそがれる点」ということになっていますが、小説の場合の視点とは、「見る」ということだけでなく「聞く」「考える」「感じる」という要素も含まれます。

つまり、地の文(会話以外の部分ですね)で、読者は誰に荷担すればいいか、ということなんですが……よけいわかりにくいか(笑)

一番単純なのは、一人称形式の場合です。

一人称形式の場合には、地の文は必ず登場人物の語りになっていますから、視点は必ずその登場人物のもの、ということになります。つまり、その人が見たこと、聞いたこと、考えたこと、感じたことが、表現されればいいわけです。逆にいうと、その人が見ていないこと、聞いていないこと、考えていないこと、感じていないことは、書けない、ということになります。当然ですよね。

よくわからない、という方は、自分の日常を、そのまま一人称の小説にすることを、考えてみてください。書けることは、自分が見たこと、聞いたこと、考えたこと、感じたことだけのはずです。それ以外のことは、想像するしかありません。で、想像した場合は、想像した、という表現にしなければならないのです。

たとえば、好きな相手がいたとします。とりあえず、片思い状態ということにしましょう。

で、その人がこっちをどう思っているのかは、当然のことですが、わかりません。その人の一挙手一投足を見て、こっちは一喜一憂するわけです。

現実の世界でそうなのですから、小説の世界でも同じです。もちろん、主人公が超能力者で、他人の考えが読めるっていうなら別ですが(笑)

で、一人称小説の場合、語り手は常にひとりですから、視点も定まる。慣れない場合は、これが一番書きやすいでしょう。

難しいのは、三人称の場合です(この場合は、二人称小説も扱いは一緒です)。

三人称小説の場合、語り手は小説の中には実在しません。実在しない語り手ですから、逆にどこにでも存在できることになってしまいます。映画やテレビドラマのカメラみたいなものですから、「見る」「聞く」ということに関しては問題ないんですが、問題は「考える」と「感じる」です。

地の文で、誰の立場になって考え、感じるか。これはじつは、ほとんど言葉じりの問題に近いものがあるんで、気にしないでいるとどんどん混乱してきます。

例をあげてみましょう。

設定はこうです。

太郎君が花子さんをにらみつけます。花子さんは視線をそらせます。そのとき、太郎君は怒っています。花子さんは悲しくなっています。にらみつけていることと、視線をそらせることは、目に見える現象ですから、問題はありません。問題になるのは、太郎君が怒っていることと、花子さんが悲しんでいること。これは、視点によって、はっきりわかる場合と、想像するしかない場合とに別れます。

これをまず、太郎君の一人称で表現してみましょう。

「ぼくが怒ってにらみつけると、花子は悲しそうに視線をそらせた」

太郎君は、自分が怒っていることはわかりますが、花子さんが悲しんでいることは、想像するしかありません。ですから、「悲しそうに」という表現になります。

逆に、花子さんの一人称にすると、

「太郎が、怒ったようにわたしをにらみつけたので、わたしは悲しくなって、視線をそらせた」

となります。

念のため、太郎君の一人称で、誤った表現をしてみましょう。

「ぼくが怒って花子をにらみつけると、花子は悲しくなって視線をそらせた」

太郎君には、花子さんが悲しくなっていることは、わかるはずがないのですから、この表現は誤りです。

ちなみに、

「ぼくが怒ったように花子をにらみつけると」

という表現の場合は、誤りではありませんが、ニュアンスが少々変わってきます。この表現の場合、太郎君は本当は怒っていない、というような雰囲気になってしまいます。

では次に、三人称の場合です。

これは、いくつかのパターンが考えられます。

まず、太郎君の立場になった場合。

「太郎が怒って花子をにらみつけると、花子は悲しそうに、視線をそらせた」

次に、花子さんの立場になった場合。

「太郎が怒ったように花子をにらみつけたので、花子は悲しくなって、視線をそらせた」

次に、どちらの立場にもならない場合。

「太郎が怒ったように花子をにらみつけると、花子は悲しそうに視線をそらせた」

ここまでは、どれも誤りではありません。

そして、両方の立場に立ってしまう場合。

「太郎が怒って花子をにらみつけると、花子は悲しくなって視線をそらせた」

これも、絶対的な誤りということではないでしょうが、小説としては敬遠されることが多いようです。ひとつの文章の中で、異なる視点を使うのは、あまり好まれないようです。

もし双方の立場に立ちたい場合は、

「太郎が怒って花子をにらみつけた。花子は悲しくなって視線をそらせた」

とふたつの文章に分けることをおすすめします。

この視点の問題は、「小説のようなもの」を書くだけの場合、「そこまでしなきゃいかんのかい?」と思いたくなるような問題です。だから、無視してもかまいません(ここまでいろいろ書いておいてそんなこというか?)が、こういうところを気を使うだけで、小説っぽく見えること請け合いです。

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